howrahBridge2

ホテルパラゴンには長逗留することが多かった.その間に洋の内外を問わずたくさんの旅行者と出会い,そして別れていった.その後も手紙をいただいたりお 付き合いさせていただいている方もいる.ここでは,そんなホテルパラゴンでの話をご紹介しよう.といっても,パラゴンではあんまりちゃんと日記を付けてい ないことが多くて,後日まとめて書いたりしていたので,正確な状況を今となっては思い出せない.なかにはその印象だけとなってしまった人もいる.
1981年の8月3日,カルカッタを離れてガヤへ列車で向かう時の事だった.
朝6時起床.朝食を済ませた後(YMCAに泊まっていた,朝食付きで35Rsだった),イースタンレールウェイオフィスへ行き,ガヤ行き夜行列車を予約 した.昼食はリージョンソンのチャイニーズ.午後は植物園でごろごろ時間をつぶした後,いったんサダルへ戻って夕食を済ます.夜,バスでハウラー駅へ行く が,目的のDoon Expressが見つからない.右往左往しているうちに,アメリカ人の3人組に声をかけられた.
「Doon Express なら Tonight は no run だ」アメリカ訛でそう話しかけてきた.
「Why?」大阪訛で尋ねた.
「Accidentじゃ」
「えらいこっちゃ!」
とにかく「金返せ」とばかり切符をキャンセルに行き,そうこうしているうちに次第に夜も更けてきた.
「お前ら今夜泊まるところがあるのか?」とアメリカ人(スティーヴと名乗った)が再び声をかけてきた.
「う~む,どうしようか」時刻はすでに0時前.彼らがついてこいというので,一緒にタクシーでサダルに戻る.パラゴンホテルという安宿の前で降りて,スティーヴが入口の鉄扉をガンガン叩く.そうして10Rsのドミトリーに泊まることになる.
これが,私とパラゴンホテルの最初の出会いであった.この後,リムカを飲みながらスティーヴと少し話し,Tazukoという日本人のガールフレンドに手 紙を書くというので,彼が書いた英文を日本語訳してやったことなどが日記に記してある.そういえば,彼らはインドで最初に話した白人旅行者でもある.その 時のパラゴンホテルの印象はとにかくもう怪しくて,ドミの奥の暗がりでは誰かがスーハースーハーやってるし,ちょっとびびっていた.
ちなみに,ひょんなことからこの時の列車事故の現場を目にすることになる.
当時は,ガイドブックもたいしてなく,旅行記などを読みあさっては地図をノートに写したり,安めのホテルのアドレスを書き取ったりして日本を出ました. パラゴンのことはどっかで噂には聞いていたと思うのですが,多分恐ろしくて行けなかったのだと思う.そんな私が無類のインド好き,カルカッタ好き,パラゴ ン好きになるのだから,インド恐るべし.

カーりー寺院

ハヌマンは自分のことを旅行芸術家などと称するちょっと変わったツーリストだった.独学でつぼの勉強をし,頼めば指圧してくれる.これは彼のライフワー クなので「お金はとらない」と云っていた.滞在中私も何度か指圧してもらったが,ことのほか気持ちよかった.一度ハヌマンから「私のバイブルです」という つぼの本を借りて読みながらつぼを自分で押してるうちに,誤って経絡秘孔をついて自爆してしまったこともある.
ハヌマンは自作のチラム(ガンジャチャラスを吸引するためのパイプ)を持っていた.そのチラムはシヴァ神の彫り物がしてあってルビーが埋め込んである大層立派なものだった.夜な夜なパラゴンの屋上でお世話になった極上の一品である.「私はハッパは吸いますが煙草は吸いません」と曰う彼は,姿勢を正し右手で受け渡しをする一本筋の通った吸い方をした.吸う時にはちゃんと「ボンボレ,ボンシャンカール,ボンボレ」とシヴァを讃え,ハッパの煙をほとんどこぼさずに吸い込み,吐き出す煙の向こうが見えないほどしっかり溜め込んでいる様子は実に見事であった.後で知ったのだが,ツーリストの間では結構知られた人物らしい.
彼はインド・ネパール・タイなどの民芸品・小物類を商いにしており,当時私が着けていた魔法陣の指輪に興味を示していた.私はその後バングラデシュへと 旅立ち,彼はタイへ飛んだ.その時「ハヌマン商会」の名刺をいただいた.アドレスはK県のZ市であった.もちろん本名は教えられない.

80年代の後半頃は,まだパラゴンでは比較的自由にガンジャをはじめとするドラッグを楽しむことが出来た.一応違法ではあるが,祭りの日にはインド人も道端で集まってチラムをまわし飲みし てるし,通りかかると「ジャパニー,お前も吸え」などとすすめてくれる.パラゴンで長居をしているとハッパには不自由しない.というのも,カルカッタから 旅立つ人たちが白人も日本人もみんなここに置いて行くからだ.したがって毎日みんなで吸っていても一向に減らない.増える一方である.さすがに普通の思考 能力のある旅行者で,出入国時に禁制品を持ち歩く人はいない.
しかし,一度私はオランダ人に貰った美しい彫刻入りのパイプが気に入って「パイプならいいか」と持ち歩いていたことがあるが,これで冷や汗をかいたこと がある.エジプトのスエズ運河を超えるときに検問で麻薬犬が登場したのだ.「やばい,ハッパは持ってないけど匂いを嗅ぎつけられると厄介だ」しかし,有り 難いことにこの犬は無能だった.

ガート(沐浴場) 90年代に入ると,さすがにパラゴンでも大っぴらにドラッグを嗜むわけにはいかなくなった.デリーで知り合ったMちゃんN君のカップルとカルカッタで再 会した時は,部屋でこそこそとハッパをふかしている分には問題ないが,以前のように屋上で吸ってたりすると,マネージャーが飛んできて止めろという.仕方 なく部屋に集まってということになるわけだが,一度何人かの日本人がN君たちの部屋に集まって例のごとく車座になっているところにマネージャーが現れ, 「相部屋の女性が迷惑だと云っている.これは預かっていく」といって私たちのハッパを持って行ってしまった.ロウソクの火を灯してその美しさにハイな気分 になっていた私たちは,いっぺんに落ち込んでしまった.
その時N君が突然怒りだし,その相部屋の女性に食ってかかった.
「迷惑やったら迷惑やて何で直接云えへんねん.お互い大人やねんから,日本を抜け出してドラッグするのも,マザーのとこでボランティアす るのも各々の責任でしてることや,いややったらそう云えや,密告するなんて有無をも云わさず警察に突き出すのと同じ事やろ,パラゴンのドミに泊まってる人 のほとんどはそういう人が集まってるンや,嫌やったら別のとこ行くか,シングルに泊まるかせえや..」とまくしたてた.翌日彼女はサルベーションアーミーに移った.ハッパを吸引することは法的には明らかに犯罪であるが,心情はN君と同じである.
興ざめした私は,一階でリムカを飲みながら煙草をふかしていた.そこへ,マネージャー氏が再び現れ,「これは返す」と持ち去っていったハッパを返してく れた.「私はあなたたちがガンジャを吸うのは別に悪いこととは思わないし,そういう自由を求めて旅しているのも知っている.しかし,宿泊者の中から苦情が 出れば,私は立場上ああするしかなかった」と彼は云った.私はその時の彼の言葉を非常に嬉しく感じ涙を禁じ得なかった.彼と握手を交わした.
別にハッパ吸ってばかりいたわけじゃないけど,ドラッグ体験とパラゴンを切り離して語ることはやっぱり出来ない.

お祭り用のカーりー像を作っている 1987年の春パラゴン滞在中のある日の日記では,こんなことが記されている.「N氏がビールを買ってきて,仏人ナセルと三人で酒盛りを始める.そのうちガンジャとチャラスのまわしのみが始まり,N氏ぶっ飛ぶ.途中でN氏がビールとリムカを買いに行く.O夫妻がLSDをとっておかしくなっている.『相手の顔を見つめてると,顔が..顔が崩れていくの..』『部屋が蠢くの,溶けだして..』などと解説してくれるが,時々遠くへ行ってしまう.O氏『バナナがうまいうまい..』とご満悦,みんなで深夜までわいわい」などと書かれているが,
「今日はとにかくボーっとしていた」
「何をしていたのだ,今日は」
「変な日本人がチョコチョコ現れ,素晴らしい想い出を求めてべらべらとしゃべりまくる,わしは眠いのだ,困った奴だ」といささかこんな日常に疲れが見え始め,
「明日カルカッタを出よう」となる.
とにかく,こんな事ばかりしてられないので,重い腰を上げ私はラマダンバングラデシュに旅立った.

カーりー寺院2

バングラデシュから戻ったのは猛暑の4月末から5月にかけてだった.バングラから戻ってくると,宿泊者の雰囲気が変わっていた.この頃は学生たちもいな くなり,日本からのツーリストが最も少ない時期だ.暑いインドを避けて長期旅行者も涼しいネパールや南インド,あるいは何かと便利な東南アジア方面へ場所 を移す.したがって,私のように会社を辞めたとか休学したとか,訳有りな人や個性的な人たちが集まり,敢えてこの暑いインドを旅する人たちがいる.
旅行人でお馴染みの早川千晶さんもこの時出会った.当時彼女はまだ学生だった.ワンピースを着ていたのが強く印象に残っている.インドでスカートをはいている女性に出会ったのは彼女とうちの女房くらいのものだった.サリーちゃんはいるけど.(知ってる人は(爆))
アフリカ一周を終えて延々陸路でヨーロッパ・中東を抜けてきた元X線技師の山本君(後にバンコクで再会,バンコクではマラリアを再発して入院),インド の自転車ヒーローに乗って旅している強者藤木氏,写真家志望の佐藤君は早川嬢(当時)と一緒にダージリンから戻ったところでおいしいダージリンティーをご 馳走になった(その後私と三人で酷暑のデリーに移動).とても明るいけいこちゃんはこれからインドを旅して歩くところだった.精神科に勤め精神薄弱児の世 話をしていたという舟木氏(後にけいこちゃんと舟木氏は南インドで列車事故に遭ったという知らせが入ったが大事には至らなかった),自称ロックスターのマ リアはヴァラナシからやってきた(彼女もバンコクで再会し,しばらくジュライでツインの部屋をシェアした).などなど.
この時期のインドの暑さは半端じゃなく,デリーなどは50度近くまで気温が上昇する.したがって我々ツーリストも昼間の行動はままならず,日が暮れてから動き始める.といっても近所をうろうろ歩き回ったりするぐらいだが(笑).夕食後は,フルーツやリムカな どの飲み物を手に屋上に集っていろんな話に花を咲かせる.旅のこと,日本のこと,仕事のこと,家族のことなどなど.普段他人には話せないような内容のこと も不思議と違和感無く話せる.言葉に詰まると,壁を這うヤモリの動きに見入ったりする.時間を気にすることなく,緩やかな時が流れていく.私はこういう ゆったりとした時間の過ごし方が好きだった.各々が語ってくれた話はプライバシーに関わることなのでここでは割愛いたします.
この時のメンバーは意気投合して,1990年の正月にリユニオンで会いましょうと誓い合った.しかし,その後リユニオンに行った者はいなかった(爆).

カーりー寺院近くの人形屋通り カルカッタはインドの出入口の一つなので夏休みや冬休みになると学生君たちが大挙して出入りを繰り返す.入るときはジーンズ・スニーカー姿に重そうな バックパックを担いでカメラを下げているが,これが一通り旅を終えて出ていくときにはインド綿のショルダーバックと薄汚れたパジャマやルンギーに身を包み,「カメラは売りました」などと云う.再会を果たしたときのこの様変わりがおかしい.「まだカルカッタにいたんですか」という彼は,最初誰だか判らない.しばらく考えてからやっと思い出し,思わず吹き出してしまう.
どじな学生もいて「今からヴァラナシに行くんですけど,まだ時間があるんでちょっと買い物に行きたいと思っているんですが,少しの間これを預かっておい てくれませんか」と貴重品袋を置いていった.待てど暮らせど彼は戻ってこず,マネージャーに尋ねるとバックパックを担いで出ていったという.案の定翌日 ヴァラナシから電話がかかってきた.「すいません,今からすぐカルカッタに戻りますので...」預かる方も悪いが,忘れるなよそんな大事なもん.しかし, 私も若干悪いという気持ちもあって,帰りの便のリコンファームに行ってあげたりした.どうも彼は忘れっぽいたちらしく,バラゴンに戻ってからも「記念写真 を一緒に撮らせてもらえませんか」と二度も私の部屋に訪ねてきたことがあった.「さっき撮ったじゃない」「あれ,そうでしたっけ」

ガート2 気の毒な例もあって,ある日女性の旅行者がパラゴンにやってきて「どうもサルベーションアーミーに女の子が泊まっているんだけどもう2日も閉じこもって 出てこないみたい」だという.それを聞いたパラゴンに宿泊している女性陣たちが「とにかく行ってみる」と彼女を訪ねていった.
真相はこうだった.彼女は学生なのだがマザー・テレサに憧れて是非「死を待つ家」でボランティアしたいとインドにやってきた.初めての海外旅行でインド へつくなり,大変なカルチャーショックを受けてマザーを訪ねるどころではない.そこへ変な男性日本人がやってきて親切に帰りの飛行機の手配とかしてあげる からといって彼女のチケットとパスポートを持っていってしまったらしい.その後連絡がつかず,どうして良いか途方に暮れている.外へは恐ろしくて出ていけ ないそうだ.衰弱しているというので,女性旅行者たちが食べ物とか持っていってやり,いろいろと世話を焼いた.
そのパスポートを持っていった日本人の居所は口コミですぐに見つかった.みんなでその彼に会って問いただすと,どうやら持ち逃げしようとしたわけではな く,本当に親切のつもりだったらしいがどうも返答があやふやだ.結局どうするつもりだったのかは判らないが,まだカルカッタにいたということは少なくとも 持ち逃げしようとしていたわけではなさそうだった.「とにかくそのパスポートとチケットは本人に返しなさい」ということで,結局我々で帰りの手配をし,無 事に日本へ送り届けることが出来た.せっかく憧れに胸を膨らませてインドにやってきたのに,良い想い出をひとつも作れずに帰国だなんてまことに気の毒であ る.これが後遺症で今後旅行が出来ないとしたら,ますますもって気の毒である.
日本人を騙す日本人もいるので皆さんご注意を.大事なものは誰かに預けたり,渡したりしないように.悪い人は滅多にいないけど,自分の責任で旅するのが一等安全です.

インド人の話をしよう.チャイ屋の小僧さんとか(大阪弁を使う奴がいたらそいつだ),煙草屋のにいちゃんとか(煙草を買いに行くとチャイをよくご馳走し てくれた),屋台のおばちゃんとか(ネパール人で焼きそばをよく買いに行った),いろいろ親しくして貰った人はいるけど,私の場合最もよく話すのは闇ドル 両替屋やハッパの売人であった.商売だけでなくいろいろと話し相手遊び相手になってくれる.
クリシュナは精悍な顎髭を生やした聖人のイメージを持つ売人だった.永渕閑「インドを這う」立風書房に写真が載っているのでご存じの方もいるかと思 う.80年代に会った頃は,正直言ってかっこいいインド人であったが,91年に再訪したときにはクリシュナは見あたらなかった.どうしたのかとパラゴンの 周辺の売人に尋ねると
「警察に捕まって留置場にいるよ」との事.
「何時出てくるのか?」
「判らない」
「元気にしてるのか?」
「ヘロインのやり過ぎでぼろぼろだ.あいつはもうだめだね」
答えてくれたのが片目のジョンで,もっぱら両替は彼に頼んだ.91年にはパラゴンの使用人ハビブ(87年には子供だったのに立派な若者に成長していた, 当たり前か)も闇両替を小遣い稼ぎにしていたが,胴元が悪いのか押しが弱いのかレートは悪かった.ジョンは他にも買ってやったりしたので,結構いい値で両 替してくれた.そのうちにクリシュナが留置場から出てきたが,確かに生気がなく,みすぼらしい老人に変わり果てていた. 今はどうしているだろう.

ガートで洗濯

片目のジョンの話を.ある日ジョンに会うと,情けない顔で訴えてきた.
「ジャパニーに騙された! 」
「?」
「大量にハッパが欲しいというので後払いで売ってやった.そしたら金を払わずに逃げた,どうにかしてくれ」
「どうにかしてくれと云われても,どうして渡すときに金を受け取らなかった?」
「その時持ち合わせがないので後で払うと云った,ジャパニーは嘘をつかないから信用したんだ!」
そう云われても,ジャパニーにもいろんな奴がいるさ.でもそんな日本人パラゴンに泊まってたかなぁ.パラゴンのマネージャーに頼んで宿帳を見せてもらっ た.やっぱり最近出ていった日本人は見あたらない,と思いきや,あ,いる.おそらく在日朝鮮人だ,それらしき名前が記入されている.今朝出ていったばか り,行き先はオリッサ州のプーリーとなっている.おそらくこの人物に間違いないであろう.
「ジョン,プーリーに行っちゃったみたいだよ」
ジョンは悔しそうな顔で「ノ~」と云った.
「誰かプーリーに行く奴はいないか」いてもどうなるものでもないが,私の次の行き先はプーリーであった.
「俺が行くよ,もし会えれば金を払うようには伝えるけど,どうしようもないよ,あきらめな」
インド人を騙すなんて不届きな奴である.腹も立ったが,まさか金をとりたてて日本人の汚名を雪ぐわけにはいかない.
かくして私はプーリーへと旅立つわけだが,この怪しい在日朝鮮人,プーリーで会ったのだけど実に怪しい奴だった.その話はまたの機会に.

その他にもおもろいツーリスト,変なツーリストはいっぱいいるけど,そのうちご紹介したいと思う.今日はここまで.


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