2人のウゴ・チャベス

2人のウゴ・チャベス

ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel Garcia Marquez)

コロンビアの作家、1982年ノーベル文学賞受賞

訳・渡部由紀子

1998年、ベネズエラ大統領選で華々しい勝利を収めたウゴ・チャベス隊長は、大規模な一連の政治改革に着手した。国会は解散され、新憲法が国民投票で承認された。彼は相変わらずの高支持率を誇り、2000年7月30日に新憲法の下で行われた選挙で、ためらうことなく残りの任期を国民の審判に委ねたほどであった。しかしチャベス大統領は、石油収入が大幅に伸びているにもかかわらず、憂慮すべき状態にある経済、社会状況を立て直すには至っていない。彼は次第に政治的に孤立を深めていると見られており、その大衆迎合政治が、いずれ独裁に変わるのではないかとの見方も強まっている。[訳出]

その日の夕暮れ時、スイスのダヴォスから帰国したペレス大統領は、飛行機を降りた途端、国防大臣のオチョア将軍の出迎えに意表を突かれた。不審に思った大統領は、「何があったのだ?」と詰問した。大臣がたくみに取り繕って安心させたため、大統領は首都カラカスの中心にあるミラフローレス宮(大統領府)には行かず、ラ・カサナの自邸に帰った。そこでまどろみかけていると、先ほどの大臣からの電話で起こされ、マラカイ市の方で軍の反乱が発生したことを知らされた。ミラフローレス宮に戻った矢先、ペレスの耳に最初の砲撃の音がとどろいた。

それは1992年2月4日のことだった。ウゴ・チャベス=フリアス隊長は、歴史上の事件に対する偏愛から、ラ・プラニシエ歴史博物館の敷地内に司令部をあつらえ、そこから反乱を指揮していた。国民の支持だけが頼みの綱であることを察知した大統領は、テレビ局のスタジオにたどり着き、国民に向けて語りかけた。2時間後、クーデタは不発に終わった。チャベスは投降の条件として、自分にも国民に語りかける場を用意するように求めた。

若きクリオーリョの隊長は、落下傘部隊の赤いベレー帽をかぶり、見事な弁舌家ぶりを示しながら、事件の全責任は自分にあると言い切った。このテレビ演説は、ひとつの政治的勝利であった。チャベスはカルデラ大統領により特赦を受けるまで、刑務所で2年を送った。しかし、支持者の多くは(また敵対者の多くも)、この敗北の演説を選挙運動の第一声のごとく聞いた。そして1999年、チャベスは共和国大統領の座を獲得した。

チャベス大統領がこれを私に語ったのは、数週間前のことである。私たちは、ハバナからカラカスへ向かうベネズエラ空軍機の中にいた。その3日前、キューバのカストロ国家評議会議長とコロンビアのパストラーナ大統領とともにハバナで会合したのが、チャベスとの初めての顔合わせとなった。私が真っ先に感じたのは、彼の強靭な肉体から放たれる力であった。彼にはまた、いかにも自然な親しみやすさと、生粋のベネズエラ人に特有のクリオーリョらしい気品があった。私たちはハバナにいる間に再会を試みたが、スケジュールの折り合いがつかなかった。そこで、カラカスに向かう飛行機の中で、ようやく彼の活動や計画について語り合うことができたのだ。

それは、眠っていた私のジャーナリスト魂を呼び覚ますような、実りの多い体験だった。彼が半生を語るのを聞いていると、マスコミが言うような独裁者の印象は微塵も感じられない。そこにいたのは、もう一人のチャベスだった。一体どちらが本物だったのだろう。

策謀家、クーデタ首謀者としてのチャベスの過去は、1998年の選挙運動の際、対立候補陣営によって大々的に喧伝された。しかし、ベネズエラ史を振り返れば、少なくとも4人は同類がいる。第一に、その評価が正しいかはともかくとして、ベネズエラ民主主義の父とされるベタンクールがいる。彼はアンガリータ政権を倒したが、そのアンガリータも、36年間におよぶゴメスの独裁を一掃しようとした民主派の軍人であった。ベタンクールの次に大統領となった作家のガジェゴスはペレス=ヒメネス将軍に倒され、ペレス=ヒメネスは実質的に11年間にわたってベネズエラに君臨した。その彼も、若い世代の民主派に取って代わられることになる。ペレス=ヒメネス政権に続く一時期が、これまでの史上で最長の大統領民選時代であった。

1992年2月のクーデタは、チャベス隊長が企てて失敗した唯一の出来事であったらしい。しかし、彼はそれも神の御心だったと考えている。1954年7月28日、力の印である獅子座の星の下にバリナス州サバネタで生を受けて以来、彼の行動にひらめきを与えてきた不思議な霊感から生まれるもの、つまり運命は、そのように受け止められてきたのだ。敬虔なカトリックであるチャベスは、自分の幸運を、100年以上も前から伝わるお守りを子供のころから首に掛けてきたおかげだと信じている。母方の曾祖父で、彼にとっては守護の英雄の一人、ペドロ・ペレス=デルガド隊長の形見である。

小学校教師だった両親の収入だけでは生活が苦しかったため、彼は9歳のころから道端で菓子や果物を売って、両親を助けなければならなかった。時折、ロバに乗って、母方の叔母の住む隣村ロス・ラストロホスに行くことがあった。そこは彼にとって、本物の町だった。日が暮れても2時間は電灯をともしてくれる小さな発電所があり、彼と4人の兄弟を取り上げた産婆もいたからだ。母親は息子が神父になることを望んでいたが、本人は聖歌隊の一員で終わった。教会の鐘の鳴らし方は見事で、村の人々はそれを聞いて、「ほら、あの鐘はウゴだよ」と言ったものだった。ある日、チャベスは母親の本の中から、開運百科を見つけ出した。その第1章「人生でいかにして成功するか」が、すぐさま彼を惹きつけた。

そこには、さまざまな職業がずらりと並んでいた。そしてチャベスは、そのほぼすべてを試してみた。絵描きとしてはミケランジェロとダヴィドを崇拝し、12歳の時、地方のコンクールで一等賞に輝いた。音楽ではギターの腕前と見事な声を生かし、誕生日会やセレナーデに欠かせない存在となった。野球では名捕手だった。軍人という項目は本には書かれていなかった。彼自身、野球の名門チームに入りたければバリナスの士官学校に入るのが一番だと聞かなければ、軍人になろうとは決して思わなかっただろう。

チャベスはそこで政治学を学び、マルクス主義からレーニン主義までの歴史を知った。そして、彼のもっとも偉大な「獅子」となるシモン・ボリバル(1)の生涯とその著作に夢中になり、ボリバルの演説はすべて暗唱できるまでになった。最初にぶつかった現実の政治は、1973年9月のアジェンデの死であった。チリ国民がアジェンデを大統領に選んだというのに、なぜ国軍が彼を倒さなければならないのか、チャベスには理解できなかった。それから間もなく、チャベスは上官から、共産主義者ではないかと疑われていたホセ=ビセンテ・ランヘルの息子の監視を命じられた。「人生は驚きに満ちている」と、チャベスは高らかに笑った。「今は、彼の父親が私の下で外相を務めているんですから」

運命のいたずらはほかにもあった。チャベスの軍歴の最後を飾る将校用サーベルを授与したのはペレス大統領だったが、20年後に転覆を試みた相手もまた、同じペレス大統領であった。「しかも、彼を殺しかねなかった」と私が言うと、彼は「それは絶対にない」と否定した。「我々が企てたのは憲法制定議会を設置することで、目的を達したら兵舎に戻るつもりでした」

英雄崇拝

初めて会ったときから、私は彼が生まれながらの語り手であることに気付いていた。彼はまさしく、創造力と詩情に富んだベネズエラの大衆文化の落とし子である。流れをつかむ素晴らしい感覚と、ほとんど人間技とも思えない記憶力を備え、ネルーダやホイットマンの詩は全編、ガジェゴスの作品をまるごと何頁も暗唱してのける。

ごく幼いころ、チャベスは偶然、曾祖父が母の言うような辻強盗ではなく、ゴメス大統領時代の伝説的な勇士であったことを知った。彼は曾祖父の汚名を晴らそうとの情熱に燃え、伝記を書こうと心に決めた。古文書館や軍の図書館で史料をあさり、生存者の証言にもとづいて曾祖父の足跡を再現しようと、歴史研究家の道具一式をかついで地域一帯を歩き回った。その結果、彼は曾祖父を自分の英雄に加え、そのお守りを首に掛けることにしたのだった。

ある日、調査に没頭していたチャベスは、うっかり国境のアラウカ橋を越えてしまった。コロンビアの国境警備隊長が彼の荷物を改めると、スパイとしか思えない道具がぞろぞろと出てきた。カメラにテープレコーダー、秘密文書、周辺地域の図面、軍用の図表入り地図、それに軍用拳銃2丁。身分証明書もあったが、スパイなら偽造の可能性が大いにある。

押し問答が何時間も続いた。その事務所には、馬上のボリバルの絵が掲げられていた。「私はもうげっそりでした」とチャベスは振り返る。「説明すればするほど、相手は聞く耳を持たなくなっていくんですから」。そのとき、起死回生のアイデアがひらめいた。「考えてみてください、隊長。わずか1世紀前には、我々の軍隊は1つでした。こちらを見ているあの絵の人物は、我々2人に共通の首領だったのです。どうして私がスパイのはずがありますか」。隊長はこれに心を動かされ、大コロンビア共和国の礼賛を始めた。結局その晩は、2人そろってアラウカの居酒屋に行き、互いの国のビールを飲み明かしたのだった。翌朝になると、ともに頭痛に耐えながら、隊長はチャベスに歴史研究の道具一式を返し、2人は国境に架かる橋の途上で長い抱擁をかわして別れを告げた。

「ベネズエラがどこかおかしくなっていることを悟り始めたのは、そのころでしたね」とチャベスは言った。彼は反政府ゲリラの最後の砦を始末するため、東部地方で兵士13人と通信部隊から成る小隊の隊長に任命された。ある大雨の夜、情報局の大佐と何人かの偵察部隊の兵士が、青ざめて痩せこけた数人のゲリラ兵らしき男を連れて、兵舎に泊めてくれと言ってきた。10時ごろ、チャベスがうとうとし始めていると、隣室から凄まじい悲鳴が聞こえた。「跡が残らないように布きれを巻いたバットを使い、兵士が捕虜たちを叩きのめしていたのです」。憤慨したチャベスは、捕虜を引き渡すか、さもなければただちに兵舎を出て行くよう大佐に命じた。「翌日、彼らは不服従の罪で軍事法廷にかけると脅してきたが、しばらくの間、監視を付けられただけで済みましたよ」

数日後、チャベスはさらに辛い体験をした。兵舎の庭に軍のヘリコプターが、ゲリラ兵の待ち伏せに遭い重傷を負った兵士たちを乗せて着陸した。チャベスは、何発もの弾丸を浴びた1人の若い兵士を抱きかかえた。すっかり怯えきって、「見捨てないでください、中尉殿・・・」と訴えている。その兵士を輸送車に乗せるのがやっとだった。他の7人は助からなかった。その夜、チャベスはハンモックの上で自問した。「自分はここで何をやっているのだ。一方では軍服を着た農民がゲリラ兵となった農民を拷問にかけ、もう一方ではゲリラ兵となった農民が軍服を着た農民を殺している。戦争が終わった今、撃ち合いをする意味などもはや何もないのに」。カラカスに向かう飛行機の中でチャベスは言った。「それが私の最初の実存的危機でした」

事件の翌朝、目を覚ましたチャベスは、何らかの運動を興すべき運命を確信した。それを実行に移したのは23歳の時であった。「ベネズエラ人民ボリバル軍」という名前からして堂に入っている。創設メンバーは、5人の兵士と、当時少尉だったチャベスである。「目的は?」と私は尋ねた。彼はきわめて簡潔に、「いざというときに備えること」だったと答えた。1年後、マラカイの装甲大隊で落下傘部隊の将校となったチャベスは、本気で謀議を開始した。しかし、「謀議」という言葉はあくまで比喩的に、共通の目的に向けて意気を上げる意味で使ったものなのだという。

カラカスの暴動

これが1982年12月17日の状況だった。その日、チャベスの人生にとって決定的な、思いがけない出来事が起こった。落下傘部隊第2連隊長と情報局の将校を兼務していた彼は、意外なことに、マンリケ司令官から1200人の将兵の前で演説するように求められたのだ。午後1時、一個大隊がサッカー場に集まると、司会者がチャベスを促した。彼が1枚の紙も持たずに登壇するのを見て、「君の演説は?」と司令官は尋ねた。「書いたものはありません」とチャベスは答え、即興で語り始めた。ボリバルとマルティ(2)の言葉に着想を得た短い演説だったが、そこには、独立後200年を経たラテンアメリカにおける不正義に関する彼独自の考察が加えられていた。

集まった将校たちは、無表情に聞いていた。彼の運動を好意的に見ていたフェリペ・アコスタ=カルレとヘスス・ウルダネタ=エルナンデスもいた。チャベスの演説にたいそう不満だった司令官は、聞こえよがしに非難を投げつけた。「チャベス、君はまるで政治屋みたいだな」。すると、身の丈2メートルのアコスタが司令官に近づいて言った。「それは違います、司令官殿。チャベスは政治屋などではなく、新しい世代の指揮官なのです。腐った権力者が彼の話を聞けば、震え上がってズボンの中で糞をちびることでしょう」

その後、チャベスはアコスタ、ウルダネタ両隊長とともに馬にまたがり、10キロ離れたサマン・デル・ゲレに向かった。3人はそこで、シモン・ボリバルがアヴェンチーノの丘で行った厳かな誓いをまねた。「もちろん、最後のところは少し変えましたがね」とチャベスは言う。「スペイン権力の意志により我々を締め付ける鎖を打ち砕いた暁には」と言う代わりに、「権力者の意志により我々を締め付け、人民を締め付ける鎖を打ち砕くまでは」と誓い合ったのである。

以後、彼らの秘密運動に加わる将校は、必ずこの誓いを立てることとされた。何年にもわたり、彼らは国中の軍人の代表を集めて隠密の会議を開いた。「秘密の場所で2日間の会合を持ち、国の現状を検討し、分析を行い、友好的な市民グループと連絡を取りました。10年間で5回の会議を探知されずに成功させましたよ」

チャベス隊長の人生でもっとも重要な事件となるのは、1989年2月に首都カラカスで荒れ狂い、「カラカソ」と呼ばれた民衆暴動であった。彼がよく口にする言葉に、「ナポレオンいわく、参謀の1秒のひらめきが勝敗を決する」というのがある。この発想に立って、チャベスは3つのコンセプトを展開した。歴史は時間単位、戦略は分刻み、戦術は秒速で決する。

この悲惨な事件が起こったとき、彼らはその準備ができていなかった。チャベスは認める。「いかにも、我々は分刻みの戦略に不意打ちを食らってしまったのです」。それは1989年2月27日の暴動、「カラカソ」を指している。高い支持率で選出されたペレス新大統領の就任から20日前後で、これほど激しい反乱が起ころうとは、とても考えられなかった。「27日の晩、博士課程の講義を受けに大学に向かう途中、ちょっとガソリンを入れようとティウラの兵舎に立ち寄ったんです」。チャベスが語り始めたとき、私たちの飛行機はあと数分でカラカスに着陸しようとしていた。「そうしたら、部隊が次々と出動しているじゃありませんか。大佐がいたので、『あの兵士たちはどこに向かっているのですか』と尋ねましたよ。訓練も受けず、まして市街戦なんて考えたこともない補給部隊の人間まで駆り出されてましたから。自分の銃でさえ恐がるような新兵たちですよ。そりゃ、大佐に尋ねますよ。『いったいどこに向かっているのですか』って。大佐は言いました。『街路を制圧する。なんとしても騒動を止めろと命令を受けた。それを遂行するのだ』。私は言いました。『しかし大佐殿、それでどうなるか、おわかりでしょうに』。彼は答えました。『いいか、チャベス、これは命令だ。どうすることもできない。運を天に任せるのみだ』」

チャベスはその夜、風疹の発作でひどい熱があったと言う。彼が車を発進させると、小柄な兵士が1人、頭のヘルメットは斜めにずれて、銃もぐらぐらで弾薬を地面に落としながら走って来るのが見えた。「私は車を停め、彼に声を掛けました」。チャベスは語る。「彼はすっかり興奮し、汗だくで乗り込んできましてね。18歳の青年でした。『どこに向かって走っていたんだ』と聞くと、『自分の部隊が行ってしまったんです。あのトラック、どんどん遠くなってしまう。お願いです少佐、追いついてください』。そこで私はトラックに追いつき、将校に尋ねました。『どこに向かっているんですか』。返事はこうです。『知りません。だれも知りません!』」

チャベスは一息ついた。彼の口調はうわずり、あの凄惨な一夜の苦悩に喘いでいた。「パニック状態の兵士が、銃と500発の弾を持たされて、道に放り出されたんですよ。もう、動くものを見ればとにかく発砲で、道も、スラム街も、下町も、砲弾の雨です。大惨事でした。死者は数千人。その中に、フェリペ・アコスタがいました。私は本能的に、奴らが彼をはめて殺したと考えましたよ」。チャベスはきっぱりと言った。「我々が待ち構えていた行動の瞬間が来たのです」。3年後に失敗することになるクーデタの準備は、この瞬間に開始された。

飛行機は午前3時ごろ、カラカスに着陸した。私は窓から、この忘れ難い町の灯火の海を見ていた。大統領は、カリブ式の抱擁とともに、私に別れを告げた。正装した護衛兵に囲まれて遠ざかる彼を見ながら、私は2人のまったく違った男との旅と会話を楽しんだような、奇妙な感覚に襲われた。1人は、国を救う機会に何度もめぐり合わせる強運な男。そしてもう1人は、新たな独裁者として歴史に残るかもしれない詐術師である。

(1) ラテンアメリカ独立の英雄。1819年、現在のベネズエラ、コロンビア(およびパナマ)、エクアドルにコロンビア共和国(のちの大コロンビア共和国)を築いた。

(2) ホセ・マルティはキューバの詩人で、19世紀末に独立運動を指導。

(2000年8月号)

All rights reserved, 2000, Le Monde diplomatique + Watanabe Yukiko + Hagitani Ryo + Saito Kagumi

NASA版スターウォーズに隠されたSFの夢

NASA版スターウォーズに隠されたSFの夢

ノーマン・スピンラッド(Norman Spinrad)

アメリカ人SF作家、パリ在住

著書『鉄の夢』(荒俣宏訳、早川書房、1980年)、

『星々からの歌』(宇佐川晶子訳、ハヤカワ文庫、1985年)

訳・ジャヤラット好子

ミシェル・ビュトールが次のような提案をしたことがある。世界中のSF作家たちが集まって、世界の未来図を共同で描く。こうして合意した枠に沿って小説や短篇を書いていき、未来を現実にしようというのだ。業界を知る者はみな、そんな提案がありえない理想だとわかっていた。SF作家は、ただ一つの点で一致しているにすぎない。地球人はいずれ、宇宙空間を渡り、太陽系全体に地球文明を広めることになるという点だ。

とは言っても、SF作家に力がないわけではない。彼らは長いこと、アメリカの宇宙計画の背後で、先見の明ある者として振る舞ってきた。ロシアのスプートニク発射後、1959年に始まったアメリカの宇宙計画は、10年後のアポロ計画とともに、現実としても比喩としても頂点を極めた。世界で初めて、アメリカ人が月面を歩いたのだ。

宇宙旅行、他の惑星への植民、あるいは帝国主義の夢を忍ばせた「宇宙征服」は、初めからSFという分野の美学の核心にあった。アメリカ人を月へといざなった多くの学者と技術者、そして宇宙飛行士自身も、未来小説から影響を受けてきた。

アポロ計画は、SF作家にとって無上の栄光であり、宇宙探検の黄金時代の幕開けとして歓迎された。1969年に人間が月面を歩いたのなら、70年代には確実に、火星遠征や月面植民地、さらにはスタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』で見せたような太陽系の果てへの探検が実現するはずだった。

しかし1980年の時点で、こうした未来が実現しないことは明らかとなった。アポロ計画は人類の宇宙探検の始まりではなく、その頂点だったのだ。航空宇宙局(NASA)の予算は削減され、その大部分が充てられたスペースシャトル計画は、人間を地球周回軌道に乗せるだけで満足していた。人類による宇宙探検の黄金時代は終わってしまった。月面着陸は宇宙征服の最初の一歩ではなく、最後の一歩だった。

ジェリー・パーネル博士が何かしようと決意したのは、まさにこの頃だった。彼はSF作家であり、アメリカSF作家協会の元会長であり、宇宙計画へ協力していた。主に共和党の側で選挙運動に参加していたパーネルは、その政治活動を通じて、後にレーガン大統領の国家安全保障担当補佐官となるリチャード・アレンと知り合った。

パーネルは1980年11月、ロバート・A・ハインライン、ポール・アンダースン、一緒に仕事をしていたラリー・ニーヴンといったSF作家たち、また学者や宇宙産業の幹部、ダニエル・グレアム退役将軍、宇宙飛行士エドウィン(バズ)・オルドリンらとともに、国家宇宙政策市民評議会を旗揚げした。

この組織は、有人宇宙飛行という未来構想の実現に向け、共和党新政権に影響を与える目的で、私人が作った圧力団体のようなものだった。とは言っても、それ以上でも以下でもあった。政権準備チームのためにレポートを作成し、パーネルを介して直接リチャード・アレンに提出した。これはアレンが国家安全保障担当補佐官に決まってからも続けられ、1981年1月にレーガン政権が発足すると、政権の最高レベルへの直接の足がかりとなった。

私は当時、アメリカSF作家協会の会長を務めていた。でも、前任者のパーネルから例の評議会へ誘われたことは一度もない。私がレーガン大統領とその仲間を軽蔑していたのは周知の事実だった。とは言っても、パーネルとは友人で、しょっちゅうフランクに話し合う仲だった。政権移行期間、つまり大統領の選出から就任までの期間に、パーネルがNASAの局長に指名されるのではないかという噂が広まった。彼は軽い笑いをまじえて私に言った「いやだよ。もっと権力のあるポストに就く方がいいな」。冗談は半分でしかなかった。

右派と左派を問わず、SF作家の大半と同様に、パーネルは人類の宇宙探検という一大事業に愛着をいだいていた。こうした計画を受け入れさせようと企てる多くの圧力団体は、あまりに素朴な理想主義によって立っていた。ところが、緻密で政治に通じ、国家安全保障会議(NSC)にコネのあるパーネルは、マキャヴェリ的とも言える戦略を展開した。人類を大々的に宇宙へ送り出すのに必要な資金をNASAが手に入れることはない、と彼にはわかっていた。主な資金はペンタゴンから手に入れるべきだった。NASAの30倍の予算をもらい、議会からの予算獲得にずっと大きな力を持っているのだから。どうすれば、ペンタゴンを動かすことができるだろうか? パーネルは答えを見つけた。ソ連の核ミサイルから米国を防衛するためだ!

これは、例の評議会の構成にも表れている。「未来」を夢見るSF作家、ペンタゴンに耳を貸せと言える退役軍人、最大限の予算をもぎとって利益を得たい航空宇宙産業の代表といった顔ぶれである。

タキオン兵器を真に受けるなんて

パーネルの戦略ははっきりしていた。テクノロジーの楯により、飛来する敵のミサイルを破壊し、核攻撃に対して米国を不死身にすることができるという発想を、レーガン政権に受け入れさせるのだ。これは割に容易だった。レーガン政権は軍事費をどんどん増やしていった。航空宇宙産業は大喜びで、影響力を活用して最大限の資金を手に入れた。軍は超高性能のオモチャをたいそう気に入っていた。夢の戦略はとてつもなく魅力的であったのだ。そして、レーガン大統領には映画と現実の区別、つまりジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』と同じ名前の戦略防衛構想(SDI)との区別がなかなか付かなかった。

なにしろ、レーガンが一般教書演説でSDIの存在を明かした際に、そこのくだりをパーネルが書いて、理論物理学の言葉を使った比喩になじみのない大統領の口から、これは「量子ジャンプ」であると語らせたぐらいだ。

例の評議会の隠された戦略は、「スター・ウォーズ」計画を使ってペンタゴンをかつぎ、有人宇宙飛行という遠大な計画に金を出させることにあった。パーネルとSF作家たちは、そうしたシステムには宇宙基地がなくてはならないと信じていた。彼らは軌道レーザーを、軌道を周回して弾道ミサイルを発進中に迎撃する対ミサイル用ミサイルを、軌道中性子爆弾を夢見ていた。これらには、探知・指令・制御をつかさどる軌道システムと、何よりも宇宙にいる人間が必要だった。

こうしたわけで、常に数十人どころか数百人ぐらい滞在するような軌道ステーションを、軍は建設すべきだった。搭乗員を宇宙空間に運び、そこに滞在させるための輸送システムの資金も入り用になってくる。という具合で、ペンタゴンがそれと気付く前に、宇宙探検の黄金時代に必要な設備に投資してくれるはずだった。宇宙ステーション、地球と軌道を結ぶ先端的なシャトル、大型輸送機、宇宙タグボート、宇宙ジープ、軌道燃料庫などなどだ。

SF作家なら誰でも知っていることがある。エネルギーに関し、要するに資金に関し、宇宙旅行の最大の障害は最初の行程にある。資材や備品、燃料や人員を、地球の重力から引きはがして軌道に乗せなければならないのだ。これさえクリアできれば、比較的少ない予算で月や火星、さらに遠い惑星へ到達できるようになる。

しかし、この未来図はサイエンス・フィクションから出てきている。私はパーネルに訊ねた。「ペンタゴンをかついで、民間の有人宇宙計画の設備に軍事予算を出させようなんて思っているのかい?」 政治的に見て、私には幻想でしかなかった。「絶対にありえないよ。あなたも誰も、議会との予算の駆け引きで軍にハッタリをかますなんてできないさ。彼らは百戦錬磨だもの。軽くいなされちゃうよ。シャトルを量産させるとか高機能にするとか言ってペンタゴンに金を出させ、NASAの予算を増やすなんて、絶対に無理だな。軍がNASAの予算を補助するんじゃなくて、シャトル計画を軍事化して、その請求書はNASAの支払いってことになるのがオチだろうよ」

おおよそ、現実はその通りになった。シャトルが動き出した最初の数年間に、それぞれの任務の全部か一部を軍が召し上げてしまった。SDIフィーバーの最盛期、ペンタゴンの議会への影響力をかさにきた航空宇宙産業は国庫をむさぼった。機能しない対ミサイル用ミサイルのため、標的を打ち落とさない対ミサイル用レーザーのため、決して数えられたことなく、たぶん数えきれることもない無茶な「研究」のために、数十億ドルが彼らのふところに落ちた。

いったいどこまで熱狂が進んでいたか、想像するのは難しい。それが絶頂に達していた頃、私はあるパーティーに出席した。カリフォルニアのヴァンデンバーグ、結局は陽の目を見ることがなかった「スペースポート・ウエスト」予定地で航空宇宙業界が主催したものだった。多くの学者と技術者が集まって、SDIについての提案に花を咲かせていた。そこで私は、科学ジョークのつもりで話してみることにした。光より速く運動し、それゆえ時間を下るのでなく遡ることができる理論上の粒子「タキオン」のことを。言うまでもないが(それでも言っておいた方がよいのだが)、そんな粒子は生み出されたことも感知されたこともなく、想像の産物である。私は言った。「どうしてタキオン・ビーム兵器を造らないのですか? 敵のミサイルが発射する瞬間に探知して、その前に発射台の上で叩くことができますよ!」 私が非常に驚いたことに、誰も爆笑してくれなかった。話を聞いた学者のひとりが、「その研究で多分50万ドルとれますね」と夢見る調子で口にした。

それから20年間と400億ドルが費やされたが、相変わらず対ミサイル防衛システムは存在しない。そして役所の怠慢、ペンタゴンの予算獲得力、航空宇宙政策の現実主義のおかげで、SDI計画はいくらかの予算をぶんどり続けている。

地球周回軌道への輸送手段として、アメリカは4機の老朽化したスペースシャトルを持っているだけ。月へ行くことも二度となかった。火星に遠征することもなかった。シャトルの行き先となる有人宇宙ステーションは一つもない。NASAの予算の大部分はステーション建設のために使われ、少なくとも500億ドルがつぎ込まれようとしている。しかし、太陽系の探検を可能にするものではなく、7人以上は収容できない。これは、十分の一の費用で建設されたロシアのステーション「ミール」が、すでに10年前に実現していたことだ。

ソ連崩壊後ほどなく、ジェリー・パーネルとラリー・ニーヴンが米国のテレビ番組で「悪の帝国を打ち砕いた」と語った。やつらが勝てるはずのない宇宙軍拡に引きずり込み、経済力を弱らせてやったのだと言う。そうかもしれない。でも、「スター・ウォーズ」は結局、アメリカの有人宇宙飛行計画もまた弱らせることになったのだ。火星探検や月面基地に回すこともできた400億ドルをSDIが吸い上げ、星間の真空に投げ捨ててしまった。さらに悪いことに、パーネルが実直に追い求めた目的に反して、アメリカの宇宙計画は軍事計画とほとんど一体化してしまった。未来に向けた彼の目的に到達することも、近づくことさえもなかった。宇宙探検の黄金時代は1969年の頃よりも遠のいた。それを気に懸ける人の数も、ひたすら少なくなっているように見える。

(1999年7月号)

All rights reserved, 1999, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Saito Kagumi

ナミビアのダム開発をめぐる二つの論理

ナミビアのダム開発をめぐる二つの論理

セシル・フイヤートル(Cecile Feuillatre)

ジャーナリスト

イザベル・ブリ(Isabelle Bris)

ジャーナリスト

訳・清水眞理子

ナミビアとアンゴラの国境を流れるクネネ川の水力発電ダム建設をめぐって、何年も前から論争が繰り広げられ、さまざまな調査や協議がなされてきた。いよいよ、政府が決断を下す段階にさしかかっている。ラオスなど世界各地で見られるように、この大規模ダム計画もまた大きな波紋を投げかけてきた。開発を急務とする国家は、環境や人権で一線を引くより、経済上の必要に迫られる。その一方で、立ち退きを求められた地元住民の多くは少数民族であり、国際環境保護団体の支援を受けて反対運動を繰り広げる。[訳出]

ヘレロ語で「終わり」を意味するオホポホは、ナミビア北西部に位置するカオコランドの中心地である。世界の果てオホポホの人口は6000人。パン屋は1軒、賞味期限の切れた缶詰のならぶスーパーが2軒、ガソリンスタンドも1軒だけ。この町を過ぎると、もうガソリンスタンドはない。西洋文明の影はもはや、どこにも見当たらなくなる。岩がむき出しになった未開の丘陵をつたい、道は迷路のごとく続いていく。焼けつくような荒涼の地、カオコランドを北に進むと、ナミビア随一の絶景が開けてくる。アンゴラとの国境をなすクネネ川のエプパ滝である。この地域にはヒンバ族が生活している。16世紀半ばに大湖地方(1)から移動し、クネネ川周辺に住み着いた部族で、現在の人口は1万~1万5000人を数える。元は同じ部族であったヘレロ族とは反対に、伝統的な生活様式を守っている。遊牧民であるヒンバ族の生活の糧はもっぱら家畜であり、牛やヤギの群を連れ、カオコランドのあちらこちらにクラールというテントを張って生活している。

長いこと孤立し、あまり知られていなかったヒンバ族を表舞台に引き出したのは、「エプパ・ダム」である。植民地時代から構想のあったダム建設計画は、1990年の独立後に具体性を帯びるようになった。厳しい干ばつに悩まされ、エネルギー資源の乏しいナミビアは、旧支配国である南アフリカへ経済的に依存している(ナミビア・ドルの相場は今なお南ア通貨、ランドに左右されている)が、エプパ・ダムの建設でこれを弱めることができる。

ナミビアは現在、エプパから上流100キロのルアカナにある唯一の水力発電所だけで、年間3.5%ほどの国内電力消費の増加に対処しなければならない。エネルギーの半分以上は、南アからの輸入に頼っているのである。

鉱業省エネルギー局長のパウリヌス・シランバ氏は、「エネルギー自給率を75%に高めたい。エプパ・ダムと風力資源、埋蔵ガスの活用により、中期的には電力の輸入率を25%まで引き下げることができるはずだ」と語る。

高さ163メートル、発電量360メガワットとなるダムの建設工費は、2兆5350億ナミビア・ドル(約52兆円)と見積もられている。1991年には、ナミビアとアンゴラの間でクネネ川整備協定が結ばれた。スウェーデン、ノルウェー、スイス、イギリスの業者が応札し、技術調査も始まっている。しかし、カオコランドの首長の一人、イクミヌエ・カピカ氏に簡単な、しかも英語で書かれた書簡を送っただけのナミビア政府は、間もなくヒンバ族の反対に直面した。サバイバル・インターナショナルのような国際的な環境保護団体や人権擁護団体が、計画は経済、社会、文化の破滅をもたらすとして、ヒンバ族を支援している。

あなたたち西洋人は・・・

ダムが建設され、115億立方メートルの貯水がなされれば、ヒンバ族の放牧地である380平方キロメートルの土地が水没することになる。10万頭あまりの家畜を擁するヒンバ族は、長い歴史を通じ、季節的に転地する移動放牧と耕作のシステムを築き上げてきた。放牧地が失われれば、日常生活の基盤が破壊されるだけでなく、クネネ川沿いのヤシのような「もしもの備え」も失われる。ヤシの実や、時として栽培されるトウモロコシ、ぺポカボチャ、メロンなどは、大規模な干ばつの際に欠かせない食糧となっている。

ナミビア人権協会オホポホ支部代表のステイン・クム・カトゥパ氏は、怒りの声を発する。「この土地はヒンバ族の物だ。政府は計画に際し、ヒンバ族の移住を約束した。だが、どこに移住させると言うのだ。よそには放牧地もなければ、水場もない。もし、ヒンバ族を都市に定住させると言うなら、それは死刑執行に署名するようなものだ。家畜のいないヒンバ族などありえないからだ」

失われいく土地で恒常的に暮らしているヒンバ族は千人程度に過ぎない、とダム工事推進派は主張する。だが、最も強硬な反対派の一人であるカピカ首長は、川の両岸で1万人もの住民が影響を受けるとする。「ヒンバ族の社会は生活様式や習慣の面で重大な変化をこうむることになる」と、カピカ首長は演説のたびに繰り返す。アンゴラとナミビアの国境に歩いて渡れる浅瀬がなくなれば、川の両岸に暮らす親族たちはバラバラになる。その上、160ある先祖の墓が水に沈むことになる。「墓は、ヒンバ族のアイデンティティの中心にあり、社会や土地とのつながりの中心的存在である。交流の場であり、移動放牧の出発点である」と、カピカ首長は書いている。墓はヒンバ族にとって、単に神聖な性格を持つだけでなく、部族長の権威や社会組織の基盤でもある。埋葬された先祖の最も多い者が、共同体を代表する最有力者となるのである。

NGOは、域外からの人の流入がヒンバ社会に大きな変化をもたらす点を強調する。計画によれば、1000人の労働者(ナミビア人450人、アンゴラ人450人、100人程度の駐在員)の流入が想定されている。家族も含めると、5000人近くになる。急激に人口が増加すれば、エイズ、アルコール中毒、売春といった問題をもたらすおそれが出てくる。1000の雇用が創出されるにしても、英語を話せず、この種の仕事に必要な能力もないヒンバ族には縁のない話だろう。このような反対論に対して、建設推進派は開発の利点を挙げる。インフラもなく、投資家に見放され、60%以上の失業者を抱えるナミビアでも最貧のカオコランドが、ダム計画によって開発されるのだと政府は言う。実際、オホポホのヘレロ族住民はこうした考えを支持している。彼らにしてみれば、5年を要するダム建設は経済特需と同義語である。

シランバ・エネルギー局長は強調する。「この地域を、貧困から脱出させなければいけない。ダムはカオコランドにとって好機だ。ヒンバ族は開発を受け入れなければならない。あなたたち西洋人は、伝統的で原始的な部族の姿を残したいのかもしれないが、あなたたちを喜ばせるためだけに人々が貧困の中に取り残されるなんて、まともなことだろうか。人々は学校に行き、靴を履くべきなのだ。私自身、貧しい家の出身だ。勉強することができたからこそ、今の地位を得ている。エプパ・ダムはインフラ、ホテル、レストラン、学校をもたらすだろう・・・。スウェーデンが数十のダムを建設しても、誰も文句ひとつ言わなかったではないか。どうして我々がたった一つダムを作ろうとするだけで、よってたかって叩かれなければいけないのか」

実際、問題は国際的な広がりを見せている。ヒンバ族が外国人を魅了するからだ。その風俗、西洋化への長い間の抵抗、美しさは、観光名物となっている。オーカー土と赤い油脂を混ぜたものを身体に塗り、乳房を露出し、重い鉄のアクセサリーで身を覆い、山羊革の短いスカートを重ね着したヒンバ族の女性は、本物に飢えた欧米人にとって理想の夢として、旅行業者の手で紹介される。ヨーロッパのジャーナリストもこれに飛びつき、自らを守るすべを知らない純情無垢な野蛮人として、ヒンバ族のことを伝えてはばからない勢いである。

「まっとうに殺せ」

ところが、ヒンバ族もほどなくマスコミの使い方を学んだ。1997年には、エプパのヒンバ族のカリスマ的指導者であるカピカ首長が、NGOに担ぎ出されてヨーロッパに出向き、キャンペーンを張った。成果は上々で、多くの者が彼の抗議に耳を傾けた。旧宗主国のドイツは計画に関与しないことを約束した。怒ったナミビア政府は、NGOがヒンバ族を操っていると非難した。ヒンバ族とともに暮らした半年間の経験を著した若いフランス人女性ソラン・バルデ(2)は反論する。「いったい誰が誰を操っているのでしょう。ヒンバ族の人たちは間抜けではありません。自分たちの商業価値、象徴価値を認識しています。彼らは西洋人の後ろめたさを突くことを覚え、とりわけ墓を移転したり水没させたりするなど怪しからん、と西洋人が考えていることを感じとったのです」

1998年2月7日、ダム問題のすべての関係者がそろった集会が首都ヴィントフークで開かれた。カピカ首長はその場で演説した。「我々は変化という変化に闇雲に反対しているのではない。ダム計画について詳しく検討した結果、外国のいかなる団体とも無関係に、我々としての結論に達したのだ」。集会では、フィージビリティ・スタディ(実現可能性調査)の結果が発表された。この調査はアンゴラ、ナミビア、スウェーデン、ノルウェーの専門家が集まった合弁会社ナマンにより行われ、クネネ川流域でのダム建設地について、三つの案を対象に環境と社会に対する影響を評価した。そして、エプパより下流のベインズ地区にすれば、水没面積も57平方キロメートルに抑えられ、自然や人間に対する影響が最小になると結論付けた。

しかし、エネルギー省は「ベインズは費用がかさみ、収益性が低いので、投資家にとって魅力が少ない」とする。さらに、ダムを最大限に活用しようとすれば、アンゴラ内戦で完全に破壊されたゴヴェ・ダムとの連動が欠かせないが、和平協定の実施に追われるアンゴラ政府にとって、ダムの修復は優先課題とはなっていない。

実際のところ、ナミビア政府は否定するが、ダム建設地はエプパに決定済みのようだ。「政府はヒンバ族をどこまでもバカにしている。この問題は極めて政治的なものだ。カオコランドは政府支持派ではない。ダムができれば、政府は与党SWAPO(南西アフリカ人民機構)の発祥地であるオヴァンボの住民を入植させることができる。政府の関心はその一点にあるのだ」と、ステイン・カトゥパ氏はため息をつく。さらに強い口調でソラン・バルデも言う。「ダムはサム・ヌジョマの肝いりになっています。大統領の業績として残そうというわけです」

ヒンバ族も幻想を抱くのはやめた。すでに1994年の時点で、カオコランドの賢人の一人、カチラ・ムニヨンバラ氏は首相に対し、「殺したいなら殺せ。ただし、住民の許しを求めるような振りはやめろ。殺すなら、まっとうに殺せ」と言明している。シランバ・エネルギー局長は、安心してほしいといった口調で話す。「軍隊を出動させるのは論外だが、ダムは建設されることになる。いずれにせよ、伝統を守るヒンバ族は次第に消えていく。そのプロセスはもう始まっている」。確かに、4~5年前から旅行業者はカオコランド観光に力を入れ、訪れるヨーロッパ人の数も爆発的に伸びている。

近代的生活に引き付けられた若者たちは、白人相手にティーシャツと引き換えに自分たちのアクセサリーを売り払い、町に出て仕事を探すようになった。シランバ局長は語る。「観光に任せておけばよい。あとはもう、時間の問題だ」

(1) アフリカ東部の湖水地帯。

(2) ソラン・バルデ『赤い大地に立つ裸足の人々』ロベール・ラフォン社、1998年、パリ

(1999年7月号)

All rights reserved, 1999, Le Monde diplomatique + Shimizu Mariko + Ikawa Hiroshi + Saito Kagumi

∑(゚◇゚;)  たちぶく~~ ∑(゚◇゚;)

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