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ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(4)嘘で世界を操る野郎ども

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(4)嘘で世界を操る野郎ども

http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/398.html

投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 11 月 30 日 09:49:24: SO0fHq1bYvRzo

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(4)嘘で世界を操る野郎ども

この文章は下記の投稿に続くものです。

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http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/380.html

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(1)ユダヤ・ファシスト、ウラジミール・ジャボチンスキー

http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/389.html

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(2)ゾンビどもの跳梁

http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/393.html

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(3)『負け馬に賭けた』?

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ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで

(4)嘘で世界を操る野郎ども

●理屈と膏薬はどこにでも貼り付くが「果実」はその本質を裏切ることは無い。悪党どもがどれほどの言辞を弄して飾り立てようと、それが「果」を実らせるための政治プロパガンダである以上、彼らの語る言葉や著述の表現などは、すべて彼らの「果実」に向けられてのみ理解されなければならない。

人間は平気で意図して嘘を付く存在である。「悪の果実」を作る者は騙すことだけを目的にした発言をする。「この人はこうも言ってる、ああも言ってる」ではなく、「コイツが実現させたことが実際にこれだからこの言葉はこんな意味だ」ということなのだ。

「嘘」を血肉化させた悪党は数多く生きているが、その中の一人、米国シオニスト・ユダヤとイスラエルのエージェント、ネオコンの悪徳詐欺師であり、同時にイタリア・フリーメーソンP2ロッジ幹部であるマイケル・レディーン(Michael Ledeen)に注目してみよう。この人物の言動が、ウラジミール・ジャボチンスキーのユダヤ・ファシズムの理想を現在の世界で結実させつつある勢力の本当の姿を、象徴的に表現していると思うからである。

 

●先日の私は阿修羅に次のような投稿をした。

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http://asyura2.com/0505/bd41/msg/826.html

「ニジェール・ウラン偽文書と捏造しすぎた男」【和訳】:ネオ・ファシズムの尻尾?

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これはインターネット新聞Daily Kosに寄せられた『Niger Yellowcake and The Man Who Forged Too Much』(by Pen Fri Jul 22, 2005 at 05:56:03 AM PDT)を翻訳したものだが、その一部を再掲する。(ぜひとも上記阿修羅投稿で全文をご参照いただきたい。)

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http://pen.dailykos.com/story/2005/7/22/7563/12283

「ニジェール・ウラン偽文書と捏造しすぎた男」【和訳】:ネオ・ファシズムの尻尾?

【前略、引用開始】

1984年にさかのぼるが、Michael Ledeenはイランに対する武器の違法な販売を行うというManucher Ghorbanifarのアイデアを実行に移した。CIAの作戦部長補佐官(Deputy Director for Operations)であるClair GeorgeはGhorbanifarを全く信用が置けないと考えた。彼はGhorbanifarがモサドのダブルスパイであってイスラエルの治安だけを優先させていると感じたのだ。しかしジョージ・ブッシュSr.は、ロナルド・レーガンを当選させた悪名高い「10月の驚き(October Surprise)」に先立って、パリにいたGhorbanifarと関係を持っていたのだが、Ledeenに同意し、こうしてGhorbanifarはイラン・コントラ事件として知られるようになった事柄の中心人物となったのである。実際に、オリバー・ノースはコントラに資金を振り向けるように1986年の1月にGhorbanifarと会った際に提案されたと証言した。

【中略】

1:この会合【注釈:米国をイラク戦争に引きずり出すための、具体的にはニジェールの偽ウラン文書を捏造するための会合】にいた二人の米国人は

(a) 特別計画室(Office of Special Plans)のメンバーであり、Michael Ledeenの舎弟、そして政府とAhmed Chalabiのつなぎ役であったHarold Rhode。(b) 特別計画室の元メンバーであるLarry Franklin。彼はAIPAC組織を通してイスラエルに機密を横流ししたとしてFBIに逮捕された

2:そこにいた2名のイタリア人は

(a) SISMI(イタリア諜報機関)チーフのNicolo Pollari。(b)イタリア国防長官Antonio Martino。

3:会合はローマにて2001年12月のことであった。

Newsweekが我々に伝えていないことは、最初の会合に第3の米国人が出席していたことであり、そしてその男がその会合をお膳立てしたのであった。Michael Ledeenである。

【中略】

Rocco Martino、Michael Ledeen、Francesco Pazienza、Silvio BerlusconiおよびNicolo Pollariは全員がP2のメンバーである。P2はSISMIのエージェントを雇い入れてそれと並行して存在する諜報機関として活動してきていることがわかっている。PollariはAbu Omarの誘拐を承認した。この誘拐はRobert Ladyの協力を得たと言われている。ある未だ知られていないSISMIエージェントがMartinoと接触し、彼にニジェールの文書を渡すことのできる”lady”と接触させた。ニジェール大使館は盗みに入られた。この正体不明のSISMIエージェントは”lady”に、偽造した文書と一緒に本物のニジェールの書類を渡した。この”lady”はそれをMartinoに渡した。

【中略】

Michael Ledeenは国家安全保障ユダヤ人協会the Jewish Institute for National Security Affairs (JINSA)の発起人の一人である。彼はAIPACのシンクタンクであるthe American Enterprise Institute (AEI)に出入り自由の特権を持っている。彼はイランの民主連合の共同発起人である。1980年にさかのぼれば、CIAはLedeenをイスラエルの重要なエージェントと格付けしていたと言われる。LedeenはKarl Roveの主要な外交政策アドバイザーである。Ledeensの主な妄想はイランを倒すことであるように見える。

1972年に彼はUniversal Fascismという本を出した。その中で彼は「ファシストの目的の正しさ」について詳しく述べている。Universal Fascismの中で、Ledeenは最初に、ファシズムが「20世紀革命」であったこと、そして「人々は本当のこと、つまりファシズムにあこがれる」という彼の主張を打ち立てる。それはファシズム革命の青写真なのだ。

1980年に彼は、”BillyGate” 事件でSISMI とP2のFrancesco Pazienzaに協力した。【訳注:”BillyGate” 事件:70年代の終盤にジミー・カーターの弟ビリーが、自分の経営するビール会社の製品をリビアで売ろうとしてリビア政府から経済的な計らいを受けた、とされた事件で、イランの米国大使館人質事件とともにカーター再選の障害物になった。これには「ユダヤが仕掛けた」という説がある。】これは、最近イタリアの影の諜報機関に所属していることが明らかになったPazienzeと同一人物である。1985年にPazienzeは政治的な操作、偽造、そしてテロリストを匿ったことで有罪とされた。Ledeenは裁判資料の中でSISMIのエージェントとして身元を明らかにされている。

ペンタゴンは1980年代の半ばにLedeenの機密事項認可をSCI最高機密から普通の機密に格下げした。それはLedeenが禁輸品目をある外国に、イスラエルだと信じられているが、横流ししていることをFBIが調べ始めた後のことである。

2001年にLedeenは特別計画室と契約する仕事をするためにFeithに雇われた。

イスラエルのスパイであるJonathon Pollardに海軍で仕事をさせたのはLedeenである。

イラン・コントラ事件で、モサドのダブル・スパイManucher Ghorbanifarを使うように言い張ったのはLedeenである。

2001年の12月1日にローマでRhodesとFranklinとGhorbanifarの会合をお膳立てしたのはLedeenである。

2001年12月12日に、米国大使SemblerはLedeenおよびイタリア国防長官Antonio Martinoと私的に昼食を共にした。LedeenとMartinoは、彼らが共に出席するGhorbanifarとの次の会合について話し合った。その秘密会合で二つのCIA「でっち上げ情報」の受け渡しが行われたことに深い関心を持ったSemblerは、それをすぐにホワイトハウスに、特にStephen Hadleyに知らせるように、CIAに連絡した。Hadley はLedeenとその協力者にGhorbanifarから離れるように命じた。しかしその命令は無視され、GhorbanifarとRhodeの間の連絡は2003年の2回目の会合に至るまで続いた。

【後略、引用終り】

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このレディーンを中心に捏造された「ニジェール・イエローケーキ」だけではなく、数々の嘘がイラク戦争の「理由」とされたことは記憶に新しい。9・11でも先ごろのロンドン7・7でも、我々は嘘と隠蔽によって『新たな歴史』が作られる現場を目撃している。嘘と隠蔽による重大事件によって世界が揺り動かされる歴史は1898年のメイン号事件以来散々に繰り返されてきた。『公式の歴史』では「嘘は無かった」ことになっている。要はその『公式の歴史』が嘘によって編修されている、ということだろう。そこに巧妙に隠されているのはあるエリート集団の「世界支配へ向けての意図」である。

このマイケル・レディーンという男も嘘のために生まれてきたような奴とみえる。その知性は、嘘をつき新たな嘘で嘘を覆い隠すために、常に研ぎ澄まされている。これはネオコンやシオニスト中枢にいる連中の最大の特徴でもあろう。彼らの脳の中は虚数空間ならぬ「嘘数空間」であり本心から嘘をつく。嘘発見器などは効かないのではないか。

もちろんレディーン一人が《イスラエル》-《イタリア》-《米国(ネオコン・シオニスト)》を結び付ける人物であるはずが無い。彼も一人の「スター」に過ぎまい。しかしこのような人物を追うことによって、その背後にあるものの全体像を推測していくことができるはずである。

●ここでやはりWikipediaを覗いてみることにしたい。表面ヅラではあるがこの人物の略歴が分かる。『Michael Ledeen』の項目を概訳してみよう。

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http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Ledeen

マイケル・レディーン(1941年8月1日生まれ)はアメリカン・エンタープライズ研究所【訳注:正式名はThe American Enterprise Institute for Public Policy Research:ヘリティッジ・ファウンデーションとともにブッシュ政権を支えるネオ・ファシスト系シンクタンクで1943年に設立】の研究員である。彼の政治的理想、歴史観と哲学はイラク戦争に向かうブッシュ政権に影響を与えた。彼はNational ReviewとJewish World Reviewの編集人の一人であり、国家安全保障ユダヤ人協会The Jewish Institute for National Security Affairs (JINSA)の発起人、および相談役の一人でもある。同時に米国ネオコンサーヴァティヴと多くの人から見なされている。

レディーンはウイスコンシン大学で哲学博士号を取得、ドイツとイタリアのファシズム史を比較研究した。レディーンの初期の指導者の一人にドイツ生まれのジョージ・モッセがいた。もう一人イタリアの歴史家レンツォ・デ・フェリーチェが彼に影響を与えた。【訳注:George Mosse(1918-1999)とRenzo De Felice(1929-996)については後述】レディーンの政治思想は「集中化された国家権力に対する戦いの緊急性、および人間の自由を中心とすること」を強調する堅固にアンチ・ファシスト的なものであり、これがブッシュ政権に影響を与えたと言われる。

レディーンはロナルド・レーガン政権最大の外交スキャンダルの中で中心的な人物となった。いわゆるイランコントラ事件である。【訳注:これに関しては前述の記事にもあるし、また後で詳しく触れることになる。】彼はまたヨハネ・パウロ2世暗殺未遂事件がブルガリアの秘密諜報機関の陰謀であると語ったが、後に否定された。

中東地域での政権転換に関して、レディーンは2002年に国防顧問のスコウクラフトに反論して、「対テロ戦争」を主張した。2002年9月に「The War Against the Terror Masters」を出版。

レディーンは1972年に「ユニバーサル・ファシズム(Universal Fascism)」「国際ファシズムの理論と実践1928-1936(The Theory and Practice of the Fascist International, 1928-1936)」を出版したが、いまは絶版となっている。レディーンは革命的な「ファシスト運動」と失敗した「ファシズム政権」を区別し、イタリア・ファシズムを批判した。

2003年には、「我々はテロに対する戦争を中東の範囲を超えて西欧の中心部にまで持ち込まなければならない。そこでは中東と同様に、我々の最大の武器は政治的なものである。つまり我々に反対する国々にいる人々の自由への願望の提示である。」と書いた。

レディーンはイランの政権転覆を唱え、イランがイラクの抵抗勢力の背後にいてアル・ザルカウイのアルカイダ・ネットワークをも支えていると主張する。

ニジェール・イエローケーキ捏造【訳注:これは前述の投稿に詳しいので省略する】

【後略、概訳終り】

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レディーンが属するアメリカン・エンタープライズ研究所はムッソリーニ政権が崩壊した1943年に設立された。このことは我々に重大な示唆を与えてくれる。ファシズム運動の中心がイタリアから米国に移ったように思えるのだ。以後この機関はヘリティッジ・ファウンデーションと共に米国による中南米侵略・支配の中枢機関となり、また「対テロ世界戦争」やユーラシア各国の軍事・非軍事クーデターを通して「世界の自由化・民主化」を推進する中心的な役割を果している。

それにしてもWikipediaもよく言うよ。『レディーンの政治思想は「集中化された国家権力に対する戦いの緊急性、および人間の自由を中心とすること」を強調する堅固にアンチ・ファシスト的なものであり、これがブッシュ政権に影響を与えたと言われる。』だってサ。嘘つき野郎の屁理屈をそのマンマ宣伝している。「張り付いた膏薬」でしかモノを考えないような人間はコロリと言わされるのだろうな。

●ここまで来ると、どうしてもリンドン・ラルーシュJr.と彼が主催する運動に登場してもらわなければならない。彼らの主張がすべての面に渡って当を得ているかどうかはともかく、第2次大戦後から現在までの欧米権力者集団による嘘と謀略を調査し告発し警告を発している最大のグループだからである。彼らは世界のファシズム化を策謀するこの権力者集団の動きを「シナーキズム(synarchism)」という用語で標記している。

ラルーシュ運動のサイトの一つであるExecutive Intelligence Reviewの中から、2003年7月11日に寄稿されたScott Thompsonによる『シナーキズム-ナチ/共産主義:マイケル・レディーンはイランの「政権転覆」を要求(’SYNARCHISM-NAZI/COMMUNISM’  Michael Ledeen Demands `Regime Change’ in Iran)』という論文の一部を翻訳しよう。

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Executive Intelligence Review

http://www.larouchepub.com/other/2003/3027ledeen_iran.html

SYNARCHISM-NAZI/COMMUNISM’

Michael Ledeen Demands `Regime Change’ in Iran

by Scott Thompson

【前略、翻訳開始】

レディーンの「シナーキスト」のルーツ

レディーンの生涯に最初の重要なインパクトを与えたのはドイツ系ユダヤ人移民のジョージ・モッセ(George Mosse)だった。彼はあのナチのリーダーであるヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)やヘルマン・ゲーリング(Herman Goering)と良い仲であった。モッセはゲーリングが彼の父親を「アーリアン」であるとするほどに親密であり、家族は法律が変わる15分前にドイツを離れることを許された。

ケンブリッジで学んだモッセは、ウイスコンシン大学でレディーンの教官となるのだが、ファシズムが、アンチ・セミティズムによる「悪用」であったのだが、科学的に研究されるべきであると彼に教えた。なぜなら西側諸国のガイスト(精神)が窒息しておりファシズムかナチズムを通してのみ再生させることができるから、というのである。レディーンはその大学の哲学科で働いているときに、ウラジミール・ゼエヴ・ジャボチンスキー(Vladimir Ze’ev Jabotinsky)と結びつくイスラエル諜報部関連の運動の支部――それはモッセの影響下にあった――に参加していたことで排斥された、と言われる。このジャボチンスキーはイスラエルの指導者ダヴィッド・ベン・グリオン(David Ben Gurion)が『ウラジミール・ヒトラー』と呼んだ男なのだ。

レディーンが後の大統領府対外諜報顧問委員会(Presidential Foreign Intelligence Advisory Board)メンバーであるデイヴィッド・アブシャイァ(David Abshire)に紹介されたのはモッセを通してであった。この男は戦略国際研究センター(CSIS;the Center for Strategic and International Studies)の創設者であり、レディーンを政治情報参謀として雇った。

しかしむしろもっと重要なレディーンの師匠はレンツォ・デ・フェリーチェ(Renzo de Felice)であった。彼は、最初の近代ファシストであるナポレオン・ボナパルトの登場を導いたフランスのジャコバン革命の擁護者であった。デ・フェリーチェは、『イルミナティと革命的神秘主義1789-1900(The Illuminati and Revolutionary Mysticism, 1789-1900)』を書いた際に、自分のファシズムを隠さなかった。「私のジャコバン主義とある種のファシズムとの間には共通の何かがある。・・・・文明の歴史の新たな面に向かって・・・・ファシズムは社会と個人の変革の達成を求めた。」

1966年と1967年のイタリアで研究したレディーンは、そこで文明戦争の「魔法使いたち」であるヴェネチアの寡頭政治支配者たちの子孫に会ったのだが、その後『普遍的ファシズム(Universal Fascism)(1972)』、Journal of Contemporary History(July 1969)の記事『イタリア・ファシズムと青年(Italian Fascism and Youth)』、アーヴィング・ルイス・ホロヴィッツ(Irving Louis Horowitz)編集のThe Use and Abuse of Social Scienceの記事『ファシストの社会政策(Fascist Social Policy)』を書き、そしてその他にレンツォ・デ・フェリーチェ著でレディーンによるインタビューを含む『ファシズム、その論理と実践への非公式な招待(Fascism, An Informal Introduction to Its Theory and Practice)』を出版した。

レディーンは拘束の無いジャコバン・スタイルのファシズムを好んだ。1900年代初期のガブリエレ・ダヌンツィオ(Gabrielle D’Annunzio)のそれのようなものである。1972年の『普遍的ファシズム』で、レディーンはベニト・ムッソリーニ(Benito Mussolini)を、あまりにも厳格である、として非難した。「彼は決してイタリア人に十分な信頼を置かずファシズムへの純真な参加を人々に許さなかった。」

レディーンの犯罪暦

レディーンは、過去20年を通して、いくつかの最も浅ましい犯罪に関与してきている。政府高官たちや諜報機関員たち、そして私的な「シナーキスト」ネットワークと共謀しながら。

イランゲート:

レディーンが今日イランの「政権転覆」を呼びかけているのは特に皮肉なことである。彼が1980年代を通してイランの政権と手を結んでの民主化計画の秘密作戦で主犯の一人となっていたからである。彼はフランスに住むイラン人マヌチャル・ゴールバニファル(Manuchar Ghorbanifar)と密接につながって働いたが、イスラエルの政治諜報エージェントであるダヴィッド・キムチェエ(David Kimchee)がレディーンにこの男を紹介したのである。レディーンは1985年10月8日にゴールバニファルを国家安全保障委員会補佐官のオリヴァー・ノース(Oliver North)とのミーティングに連れて行った。その場にはイスラエルの武器商人ヤアコヴ・ニモルディ(Ya’acov Nimrodi)も出席していたが、この男はノースの「エンタープライズ」の中で重要人物だった。レディーンはこの件で1985年中ひんぱんにノースと会った。CIAがゴールバニファルを信頼が置けないとしているにも関わらず、である。500基のTOWミサイルがイランに輸送されたのはゴールバニファルを通してである。続いて19基のホークSAMミサイルもである。その見返りとしてレバノンでテロリストによって捕縛されていた米国人人質が解放された。これがイラン・コントラ事件の中心をなす『武器と人質の交換』取引であった。イランに行った武器は、米国の武器庫から、あるいはイスラエルの巨大兵器産業から、直接にやってきた。これにはイスラエル政府のトップの高官も関わっていた。

レディーンは、単にイランに対する「調査計画」に関わっただけだ、と主張し続けた。これは「たまたま偶然」に「行動計画」に変更された、というわけである。しかしながらこの時期の間中、CIAの計画補佐官テオドール・シャックリィ(Theodor Shackley)とともにEATSCO【訳注:the Egyptian American Transport and Services Corporation】という企業を利用して、彼は関与し続けたのである。なおこのシャックリィはイラン・コントラ人脈のもう一人の中心人物なのだ。

イタリアのプロパガンダ2(P2)ロッジ:

大西洋両岸からの数え切れないほどの情報源によると、CSISでキッシンジャー(Kissinger)とアレクサンダー・ヘイグ(Alexander Haig)の下で働きながら、レディーンはプロパガンダ・デュウ(P2、Propaganda Due)ロッジのメンバーになっていた。そこは1981年5月20日に白日の下に曝されることとなった。この暴露が起こったのは、メフメット・アリ・アグカ(Mehmet Ali Agca)による教皇ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件のちょうど7日後のことである。この事件にP2ロッジが関与していたと考えられたのである。P2が明るみに出されたことによって、47名のイタリア陸軍の将軍と6名の海軍指揮官が辞任せざるを得なかった。同時にブリュッセルのNATO本部で働く海軍の高官ブルーノ・ジ・ファビオ(Bruno di Fabio)が名指しされたのだが、彼のデスクを通してあらゆるNATO加盟国の秘密諜報機関の報告が受け渡されていたのである。この秘密組織のメンバーであることが明らかにされた他の著名なイタリア人たちは、軍の最高スタッフ、ジォバンニ・トリッシ(Giovanni Torriss)、秘密諜報機関の協力団体の責任者ワルター・ペロッシ(Walter Pelosi)、軍諜報機関(SISMI)の責任者ジゥセッペ・サントヴィト(Giuseppe Santovito)、文民諜報機関(SISDE)の責任者ジゥリアーノ・グラッシーニ(Giuliano Grassini)であった。彼らは地位を失い、また彼らがレディーンの親密な付き合いの中に含まれていたことが明らかにされた。P2ロッジのグランド・マスターであるリチオ・ジェッリ自身について言えば、彼は完璧な「シナーキスト」であり、レディーンなら「普遍的ファシスト(universal Fascist)」と呼んだかも知れないが、ナチSSの連絡将校であり、少なくとも1956年まではソヴィエトのエージェントでもあった。

「神殿の丘」謀略

レディーンと彼の妻バーバラは、イスラム教徒にとって第3の聖地であるエルサレムのアル・ハラーム・アル・シャリフ(アラビア語で「神殿の丘”Temple Mount”」)の上に、ソロモン第3神殿を再建する『ハルマゲドン・プロジェクト』に参加し続けている。聖なる岩のドームの上にあるアル・アクサ・モスクの破壊計画は、中東での止めることが不可能な戦争を勃発させるかもしれない。バーバラ・レディーンは最近まで「聖書考古学誌(Biblical Archeology Review)の編集幹部を務めていた。この雑誌は、英国フリメーソンリーのthe Quatuor Cornati (“Four Crowns”)とともに、その第3神殿が置かれるべき場所を決定する中心的な役割を果している。

【以上、訳出、終了】

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●この論文のイラン・コントラ事件に関する部分に出てくるイラン人マヌチャル・ゴールバニファルやフリーメーソンP2ロッジに関しては、最初にご紹介した私の阿修羅投稿にも書かれている。さらにP2はオプス・デイとも深く関わると言われ(というかオプス・デイがP2の宗教部門といっても良いほどの関係)、当然だがバチカンの中枢とつながる。SISMIだけではなくCIA、モサド、MI6とも強く連結されているのは言うまでも無い。

(参照)

http://www.asyura2.com/0502/war68/msg/1006.html

「使命」を終えたヨハネ・パウロ2世;『バチカン=オプス・デイ=CIA』軸への考察

http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/444.html

超巨大カルト、バチカン研究:(5)「米国・バチカン同盟」の軌跡とオプス・デイ

そしてその人脈の中にユダヤ・ファシストの直系マイケル・レディーンが顔を見せる。

さてさて、イタリア半島には余程とんでもない妖怪が住み付いているようだ。前回「(3)『負け馬に賭けた』?」で、私は、ムッソリーニは『負け馬の皮』ではなかったのか、と申し上げた。脱いだ『皮』は投げ捨てて野良犬どもが食いちぎるに任せれば良い。『本体』はとうに先のほうを走っているのである。レディーンがファシズムを称揚してムッソリーニをけなしたのは、『本体』に属する者として当然のことだろう。ちょうどレオ・シュトラウスがヒトラーのナチズムをけなしてネオコン主義の元祖となったように、である。彼らも先を行く『本体』に属する者たちに違いあるまい。

ヒトラーも東条もしょせんは『本体』に投げ捨てられた『負け馬の皮』だが、それを未だに唸り声を上げながら噛み付き食いちぎるのに余念の無い人たちや、逆に後生大事に守ろうとする人たちが跡を絶たないようだ。どっちもご苦労さんなことで!

●ところでユダヤ・ファシストの元祖ウラジミール(ゼエヴ)・ジャボチンスキーはこの「妖怪の郷」イタリア半島で一体何に出会ったのか。

マイケル・レディーンの師匠の一人ジョージ・モッセは、『ファシズムが、アンチ・セミティズムによる「悪用」であったのだが、科学的に研究されるべきである』と彼に教えたようだが、要は「アンチ・セミティズムでなければ良い」というわけだ。このモッセの論調がジャボチンスキーの運動から直結していることは火を見るより明らかだろうし、その論法はレオ・シュトラウスの屁理屈と極めて類似している。

また、現在の欧州で「ホロコースト」を使って「アンチ・セミティスト」レッテル貼りキャンペーンを展開するシオニストどもが現代のイタリア・ネオファシストと肝胆相照らす仲であるのも、この観点からすれば当然と言える。

またもう一人の師匠レンツォ・デ・フェリーチェは第2次大戦後にイタリア共産党に属していたようだが(後に脱退)、彼がP2とどんな関係を持っていたのかは不明だ。しかし彼の視点は明らかに『本体』のものだろう。彼はファシズムの根源を啓蒙主義(Enlightenment:「(理性の?)光を当てること」の意味で、イルミナティIlluminatiを連想させる)以来の中産階級(ブルジョアジー)のイデオロギーであると見なし、中産階級の独自のパワーを発揮させる断固たる運動である、と考えていたようだ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Renzo_De_Felice

Renzo De Felice

ひょっとすると同様の主張はフェリーチェよりもはるか以前から存在しており、ゼエヴ・ジャボチンスキーが惚れ込んだのもそのようなものではなかったのだろうか。これは憶測に過ぎないのだが、現在の欧米のネオファシストども――間違いなくシオニストやネオコンと同根(ラルーシュ流に言えば全部併せて「シナーキスト」となるか)――がたくらんでいる彼らなりの「革命(=ワンワールド・オーダーの実現)」について考えるときに、非常に示唆的である。ジャボチンスキーがその根っ子の一つになっていることが明らかだからである。

●次回は再びこのユダヤ・ファシズムが現在の世界でどのように姿を現しているのか、について、いくつかの異なった視点を持つ文章を通して、このジャボチンスキー以来の系譜を見つめなおしてみたい。

続きを読む ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(4)嘘で世界を操る野郎ども

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(3)『負け馬に賭けた』?

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(3)『負け馬に賭けた』?

http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/393.html

投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 11 月 26 日 07:26:11: SO0fHq1bYvRzo

これは次の阿修羅投稿に続くものです。

http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/380.html

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで

(1)ユダヤ・ファシスト、ウラジミール・ジャボチンスキー

http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/389.html

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで

(2)ゾンビどもの跳梁

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ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで

(3)『負け馬に賭けた』?

●アブラハム以来(?)のユダヤ歴史年表がイスラエルのサイトJewishhistory.orgで作られて公表されている。

http://www.jewishhistory.org.il/

The History of Jewish Pweple

この中からウラジミール(ゼエブ)・ジャボチンスキーの略歴を取り上げてみよう。

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http://www.jewishhistory.org.il/1880.htm#Jabotinsky

1880(10月5日)-1939【訳注:これは1940の誤植と思われる】

ウラジミール・ジャボチンスキー(オデッサ-エレツ・イスラエル)

新シオニスト機構(the New Zionist Organization:1935)、ハガナー(the Haganah、1920)、ユダヤ人部隊(the Jewish legion:1917)、Brit Trumpeldor、ベタール(Betar:1917)、修正主義者党(the Revisionist Party)、イルグン(the Irgun:1937)の創始者。世界シオニスト機構に参加する前には、ジャボチンスキーはトルストイとプーシキンによってロシアの最も有能な作家と見なされた。彼はじきに優れた政治家、言語学者(7ヶ国語を書きポーとダンテをヘブライ語に翻訳)そして優秀な語り手として認識されるようになった。1935年に彼は、生ぬるい敗北主義の政策であると非難して世界シオニスト機構と別れた。彼は90%の移民と10%の政治家からなるイスラエル建設を信じ、同時に唯一の国語としてヘブライ語を使用させる政策を信じた(エスタブリッシュメントたちは彼を非現実的だと見なした)。1930年代には欧州に空軍と海軍の学校を作り、一方で同時に東欧からの完全な避難を呼びかけた。彼の書いた何百ものパンフレットの最後の一つは「11番目の時(The Eleventh Hour )」(1939)と名付けられ、それは60万人のポーランド・ユダヤ人の即時移住を求めていた。彼は誇大な警告者という烙印を推された。彼はニューヨークのハンターにあるベタールの支部を訪問している最中に心臓病で死亡した。

【引用、翻訳、終り】

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さすがにイスラエルで作られている年表だけあって、ムッソリーニのムの字も出てこない。そしてジャボチンスキーを「少々行き過ぎの面はあるが紛れも無い愛国者で欧州のユダヤ人の悲劇を予測して強く警告した人」というイメージで紹介している。「隠蔽と虚構」という大衆支配の原則に忠実に作られているようだ。またハガナーやイルグンなどの「創始者」と書かれているがこれは不正確で、「創設に関与した」という意味だろう。

なお、ハガナー(Haganah:「防衛隊」の意味)は、1909年に創設されたHaShomer(「自警団」の意味)がその前身で、1920年のアラブ人との戦いの時期からHaganahと改名され軍事組織として確立した。そして1948年のイスラエル建国の際に、イスラエル国防軍に変えられた。出身者の中にはイツァーク・ラビン元首相、アルエル・シャロン現首相、モシェ・ダヤン元国防相などがいる。

イルグン(Irgun:「民族軍事機構」)は1937年にハガナーから分離した過激組織で1948年にイスラエル国防軍に吸収される。創設者はAvraham Tehomi。英国はこれをテロリスト組織と見なした。1946年にはエルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆弾テロを起こし、1948年のデイル・ヤシン村での大虐殺の中心となる。メナチェム・ベギン、イツァーク・シャミール両元首相、モシェ・アレンス元国防相が代表的なメンバーである。

ベタール(Betar)は修正シオニスト青年運動で、上のイスラエル製の年表では1917年となっているがWikipediaでは1923年にラトヴィアのリガで、ゼエブ(ウラジミール)・ジャボチンスキーによって創設された、となっている。最初は過激な政治運動だったがやがてムッソリーニの協力で正式な軍事訓練を受けることになる。イルグンのベギン、シャミール、アレンスも所属していた。この組織は現在でも存在し、リクード党を支える様々な活動を行っている。

それにしても「心臓病で死亡」というのはどうも引っかかる。後にバチカンで、オプス・デイに都合の悪い教皇とバチカン幹部がやはり「心臓病」で急死している。ジャボチンスキーの60才の死は、1930年代に「東欧からの完全な避難」を、「(1939年に)60万人のポーランド・ユダヤ人の即時移住」を求めた後のことだった。何か臭うが今はそれには触れないでおこう。

●次に挙げるのは、ユダヤ人のシオニズム研究家レンニ・ブレンナーの作品である。これはインターネットではデンマークにある次のサイトに納められているもので、

REDS – Die Roten

http://www.marxists.de/index.htm

このHPの最初に次のような挨拶文が書かれている。

『マルクス主義者と社会思想に興味を持つすべての人々を歓迎します』

ここでの“Israel & Palestine”という項目の中に

http://www.marxists.de/middleast/isrpalndx.htm

ブレンナーの2つの長大で精緻な研究成果が記録されている。

一つは“Zionism in the Age of the Dictators(1—26)”

http://www.marxists.de/middleast/brenner/index.htm

そして“The Iron Wall”

http://www.marxists.de/middleast/ironwall/

である。

2つとも膨大な量であり、とても全部をご紹介するわけにはいかない。重要な箇所は数え切れないほどあるのだが、ここでは“The Iron Wall”の中に納められる“8. The Years of Fascism and Terror”

http://www.marxists.de/middleast/ironwall/08-fascter.htm

および“Zionism in the Age of the Dictators(1—26)”にある“10. Zionist-Revisionism and Italian Fascism”

http://www.marxists.de/middleast/brenner/ch10.htm

そのごく一部だけを日本語訳してご紹介したい。ほんの短い紹介なのだが、日本でほとんど知る人のいない「ユダヤ・ファシズム」の問題について、一人でも多くの人が関心を持つきっかけになれば幸いである。

(本文にある出典を示す注釈は割愛するので、興味のある人は本文を参照していただきたい。また以下の訳文中で「・・・・・」と《 》で挟まれた箇所は、著者による他の文章からの引用である。Revisionismという用語に関しては、あまり良い訳とは思わないが、とりあえず最も一般的である「修正主義」と訳しておく。)

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“The Iron Wall”より“8. The Years of Fascism and Terror”

【翻訳開始、前略】

ファシスト・イタリアへの一層の接近

1930年代半ばには、システムとしてのファシズムに対する小さな異論を言い続けてはいたが、ジャボチンスキーは次第にイタリアの方に向かっていった。1934年9月にムッソリーニはチビタベッキア【Civitavecchia、訳注:ローマに近い港町】のscuola marittima(海軍学校)にベタールの部隊を作り上げた。そこで134名の研修生たちが有名な黒シャツ隊によって訓練を受け、1936年にイル・ドゥーチェ【訳注:ムッソリーニのこと】自身が彼のシオニストの言葉を論評した。イタリアに学校を作ったことによって、世界は修正主義(Revisionism)に対してファシストというイメージを固めただけだったのだが、傲慢なジャボチンスキーはほとんど気に留めなかった。彼はムッソリーニ政権との交渉を引き受けるイタリア人の支持者の一人に手紙で次のように書いた。我々はどこにでも学校を作ることができたかもしれないがしかし「我々は・・・ イタリアにそれを作り上げることを望んだのだ」と。1935年の4月までには、ジャボチンスキーはムッソリーニの弁護人ともいえるようなものになっていた。そして米国訪問中に、彼はシオニスト英字新聞the Jewish Daily Bulletinに『ユダヤ人とファシズム――いくつかの所見――そして一つの注意』という記事を書いた。

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《ファシズムの他の点についてほとんどの人が何一つ考慮しないにしても、ファシスト思想のイタリア版が、少なくとも人種的平等性のイデオロギーであることは疑う余地が無い。これを大したことでもないというふりをするほどに卑屈にならないでおこう。人種的平等性とはあまりにも些細な考えであって市民的自由の欠如とはつりあいが取れない、などと。これは正しくない。私は出版の自由が無ければ息が詰まってしまうジャーナリストなのだ。しかし私は、市民的権利の尺度の中で、たとえ出版の自由であっても、すべての人間の平等より優先すると言うことは単に冒涜的なだけである、と断言する。平等が最初だ。常に最初だ。絶対に最初だ。そしてユダヤ人はそれを覚えておくべきである。そして、この原則を維持する政権がある状況で部分的に共食いをする動物のようになっても、十分にその欠陥を償うのだということを心にとどめるべきだ。それは批判されるかもしれないが排除されるべきではない。他にも十分に多く呪いのための言葉がある。ナチズム、ヒトラー主義、警察国家など。しかし「ファシスモ(“fascismo”)」という言葉はイタリアが使用権を持つ用語であり、そしてそれゆえに、Billingsgate【訳注:ロンドンの下町にある地区で、そこで話される下品な言葉、という意味で使われている】の練習ではなく、正しい種類の討論のためだけにとっておかれるべきものである。特にそれが非常に有害な姿を表すかもしれないときには。その用語の【訳注:ファシスモの】政府は非常に強力な要素であり、イタリアが持つユダヤへの共感は、たとえば国際連盟の委員会で、多くの攻撃をかわすことになるかもしれない。偶然だが、パレスチナ問題を監督する議会の統治委員会議長はイタリア人である。つまり――私は孤児たち(年齢とは無関係だが)【訳注:ここではユダヤ人を指すと思われる】が警戒の呼びかけに従うことを期待しないのだ――責任ある指導者たちは注目すべきである。》

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「ファシスモ」への弁明は必然的に、イタリアのエチオピアに対する侵略によって相当に印象付けられる。英国はいまや地中海での最強の権力とは言い難く、1936年までに彼は新たな支配地域のために活動する時だと言い含められるようになった。喜んでアラブ人に対する最も厳しい方法を使用する意思を持って、である。「必然的に」と彼は友人に書いた。

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《the Ersatz【訳注:本来は「代用品」などの意味だが、ここでは英国の代わりにシオニズムの保護者となる国を指すものと思われる】はイタリアでも良いし、あるいは他のよりアンチ・セミティズムが少なくユダヤ人の移民に興味を示す国々の共同管理地でも、ジュネーブ【訳注:国際連盟】の直接の委任統治領でも、私が後で述べる第4の選択肢でも良い。6月10日-7月15日の以前に私は他の候補の第一を打ち出した。結論を言うと、まだ機は全く熟していないのだ。》

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ヘルツル(Herzl)の同僚であったジャコブ・デ・ハアス(Jacob de Haas)は1930年代の半ばに修正主義に転向していた。そしてこの老シオニスト戦士は1935年にウイーンにあった新シオニスト機構(NZO)の設立会議に出席していた。彼は米国に戻るとすぐに、シカゴのJewish Chronicleに彼が持っていた毎週のコラムにそのまとめを次のように書いた。『代表者たちはファシストではなかったが、民主主義への忠誠を失っていた彼らはアンチ・ファシストではなかった。しかしながら彼らは極めて反共産主義的であった。』この老人は米国で書いていたのだが、自分自身をファシストとは見なさなかった。ファシストと言う言葉は米国では珍妙であったのかもしれない。そこで彼は自分の同僚を単に反民主主義であると考えるようにした。しかしNZOの資金担当者であり東欧での彼らの外交担当者だったウォルフガング・フォン・ワイスル(Wolfgang von Weisl)が、「修正主義者たちの中には様々な意見があったが、一般的には彼らはファシズムに親近感を覚えていた」とブカレストの外交文書で語ったとき、彼は間違いなくずっと正確であった。彼は質問者に対して「彼【訳注:ジャボチンスキー】は個人的にはファシズムの支持者であり、アビシニアでのファシスト・イタリアの勝利を白人種の黒人に対する勝利として喜んだ」と断言した。このような意見はローマで多くの人気を得ており、後にローマのチーフ・ラビとなるダヴィッド・プラト(David Prato)に次のように語ったのはムッソリーニ自身である。

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《シオニズムが成功するためにはあなた方はユダヤの旗とユダヤの言語を持つユダヤ人国家を持たなければならない。このことを本当に理解する人物はあなた方のファシスト、ジャボチンスキーである。》

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このようなことが、1936年のアラブ人反乱に直面した運動だったのだ。

【中略】

1938年のベタール会議

メナチェム・ウォルフォヴィッチ・ベギン(Menachem Wolfovitch Begin)は1930年代の修正主義の若き唱導者であった。そして、膨らみつつあったナチの脅威に直面して次第にベタール軍事組織の熱狂的な精神を高めて表現していったのは彼である。彼らの自暴自棄の激情はパレスチナの即座の征服を叫ぶ形をとった。1938年9月11日のワルシャワでのベタール世界会議で、この若い過激主義者は彼らの誓いを修正するために登場した。アルロソロフ(Arlosoroff)暗殺の後、ジャボチンスキーは一つの言葉をその中に挿入していた。『私は防衛のためにのみ私の腕を挙げる』しかしそのときにベギンはそれを次のように修正するように主張した。『私は我が民族を防衛し我が祖国を勝ち取ることのために私の腕を挙げる』ジャボチンスキーは英国を倒すどんな小さなチャンスも無い事を知っていた。1940年にはまだ、パレスチナへの侵攻という包括的な思考は彼の心の中では半信半疑のものであった。(おそらく彼の関心を引いたのは今この場面で武器を手に入れて訓練を行うチャンスだということであったろう。)彼はベギンを責めた。それは悪評を立てるだけだ、と彼は言った。しかしベギンの演説は彼の心に「ドアのちょうつがい無益なきしみ」以上の印象を与えなかった。彼にとっては「軍事シオニズム」はワイツマンの実践的シオニズムの対極であった。彼は聖書の第一行目を自分の手で書きなおした。『最初に神が創造した――政治家たちを』と。『ベギンさん、もしあなたが世界に良心が残っていると信じないのなら、あなたにはVistula川【訳注:ポーランドの中央部を流れる川】の深みに行く以外の選択は無い。』あるいは共産主義者になるか、である。

【後略】

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“Zionism in the Age of the Dictators(1—26)”より“10. Zionist-Revisionism and Italian Fascism”

【前略】

修正主義者たちはファシストとの関係を合理化する

ムッソリーニに対する傾倒は完全な破局に終わった。アラブ人、英国人、そしてユダヤ人の反対者に対して盲目的にハンマーを振るいながら、修正主義者たちは次に何がやってくるのかを見ようとしなかった唯一の者たちであった。エミール・シェキブ・アルスラン【Emir Shekib Arslan、訳注:親ソヴィエト的な汎イスラム主義運動の指導者】からムフティ【the Mufti、訳注:一般的にはイスラムの律法学士だがここではパレスチナのイスラム指導者を指す。】に宛てられた手紙の写真が、親イタリア・プロパガンダの広がりに関するものだったが、1935年にパレスチナの新聞に現れていたし、1936年までにはラジオ・バリがアラブ人たちに反英放送を鳴り響かせていた。その時期までに修正主義者たちはムッソリーニを弁護することに慣れていたので、彼らは彼がthe Muftiやパレスチナ人の運動に協力していたことを認めようとすらしなかった。1938年【訳注:この年の11月にイタリアはドイツに倣って「反ユダヤ法」を作った】になっても、米国の修正主義を代表する幹部のウイリアム・ジフ(William Ziff)が、その著作『パレスチナのレイプ(The Rape of Palestine)』で、イタリアがムフティと共謀していることを軽視しようと努めたのである。

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《反英国謀略と同時に反ユダヤを示唆する麗々しく選ばれた言葉で、英国外務省はイタリアにすべての非難を集中させた。自由主義の新聞全体が水の上に巧妙に撒かれたエサに惹かれる魚のように誘いにのった。狩りの後で熱くなった猟犬の群れのように、マルクス主義者の新聞は攻撃的に叫び声を上げた。》

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修正主義者たちが明らかに負け馬に賭けてきたという事実をよそに彼は続けた。

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《もしも厳格な現実主義者であるムッソリーニが、ユダヤ人たちを英国の影響から引き離すことができていたのなら、彼はそれをおいしい商売と見なしただろうということは疑う余地が無い。彼が友好的な関係であった強力な独立シオンは完璧に彼にふさわしいものであったろう。ユダヤ人たち自身が英国贔屓でがんじがらめになってこの見込みを断ち切ったのである。そしてムッソリーニはシオニズムを、英国政治の他の新設分野と地中海での経済的拡大を単に包み隠すだけのものであると見るようになっていた。このようにしてそれは、ムッソリーニの心の中に反イタリア勢力として立ち現れているのだ。にもかかわらず、イタリアの介入がパレスチナにおける最近のアラブ人反乱の要因であることを証明するための証拠はひとかけらも提示されていないのだ。》

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結局のところ、ムッソリーニにヒトラーを援助するように説得したのはパレスチナではなくスペインであった。ムッソリーニは、自分とヒトラーが今やどこであろうと革命を排除するためにまとまらなければならない、そして彼が帝国の拡張を期待できるのはドイツとの協力関係を通してだけである、ということを理解した。しかし彼はまた、ヒトラーと同盟を結びながら自分の党の中にユダヤ人を抱えることが不可能であることも知っていた。したがって彼はラテン化されたアーリア主義(a Latinised Aryanism)を調合した。党と経済からユダヤ人を追放し、戦争に向かって加速をつけた。修正主義者たちは正当な理由のゆえに誤ったと宣言した。

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《長年にわたって我々はユダヤ人たちにイタリアのファシズム政権を攻撃しないように説得してきた。イタリアにおける最近の反ユダヤ法について他の者たちを非難する前に、我々は率直になろう。まず起こったことに責任ある我々自身の過激なグループを咎めることにしようではないか。》

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ムッソリーニのヒトラーへの急接近に伴って、修正主義者自身のファシズムはユダヤ人世界の中で信頼不可能となった。そしてジャボチンスキーが1940年8月にニューヨークで死亡したときに、彼らは大あわてでRosh Betarの看板を下ろした。それはファシズムの臭いを漂わせていたのである。彼らは自分自身がファシストであったことを認めようとしなくなる。単にジャボチンスキーの靴を誰も履くことができなくなっただけだが。最近の修正主義の年代記編者は必然的にAchimeirのような彼ら内部のファシストの役割について避けようとする、あるいは過小評価しようとする傾向がある。チビタベッキア【訳注:1934年からベタールの部隊が黒シャツ隊によって訓練を受けた場所】は通常「イスラエル海軍がここで訓練を受けた」と申し訳程度の記述で済まされてしまうのだ。

【引用、訳出、終り】

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●もちろん上の訳出部分はレンニ・ブレンナーの膨大で精緻を極めた研究の中でほんのかすった程度の部分に過ぎない。忘れてならないことは、ムッソリーニと手を結んでいたのが決してジャボチンスキー率いる「修正主義者(レヴィジョニスト)」だけではなかったという事実なのだ。(もちろんブレンナーも他の研究でこれに触れている。)シオニズム創始者のチャイム・ワイツマンや主流派幹部のナウム・ソコロウなどは、もちろん自らを「ファシスト」とは見なさなかったが、ジャボチンスキーの以前に積極的にファシスト党に接近していたのである。イタリア在住のシオニストたちも1938年まではファシスト党と蜜月の関係にあったのだ。

確かに現在のシオニストたちはジャボチンスキーのことを詳しく語りたがらないようだ。またファシスト直系に近い現イタリア・ベルルスコーニ政権と彼らとの極めて親密な仲、およびベルルスコーニとADLフォックスマンの肝胆会い照らす友情の一方で、彼らは双方してシオニズムとファッショ・イタリアとの関係を覆い隠すのに必死の様子である。ジャボチンスキーを洗い始めると、「修正主義者」だけでは済まなくなり、その他の関係までボロボロと姿を表してくるからかもしれない。

そしてここに一つの重大な疑問が残る。先ほどのブレンナーの研究によると、1938年にムッソリーニが「反ユダヤ法」を制定した後で、特に1940年のジャボチンスキーの死後、「修正主義者」たちの評判と権威は地に落ちた・・・・かのように見える。しかし彼の後継者たちによる本当の意味の「ファシストらしさ」が発揮されるのは実はこの後なのだ。これはどういうことなのか? 彼らは本当にブレンナーの言うように『負け馬に賭けた』のだろうか?

このシリーズの第1回目でも触れたことだが、ヒトラーとムッソリーニの仲を取り持ったスペインのフランコが数万人にのぼるユダヤ人たちをスペイン経由で逃がし、「修正主義者」たちの望みどおり、英国の意向を無視して直接パレスチナに送り込むことすら行っていたようである。(送り込んだ、ということは「すでに合意され双方で確認された受け入れ態勢ができていた」という意味なのだ。)これは「公式な歴史」の中では決して触れられない。表向きは1938年の「反ユダヤ法」でつながりが切れたことになっているファシスト陣営とシオニストとの間に、実際には何があったのか?

そしてあれほどナチズムとファシズムが非難され排除された(はずの)大戦後にも、ベタールが失われることはなかった。またハガナーから袂を分かった(とされる)イルグンを率いたメナチェム・ベギンやイツァーク・シャミールなどのジャボチンスキーの後輩たち(彼らはチビタベッキアで黒シャツ隊から直接の訓練を受けていた!)は、ユダヤ人の移住をコントロールしようとする英国に対してテロ攻撃を仕掛け続け、なおかつ決してつぶされるようなことはなく、むしろ勢力は拡大した。さらにその政治部隊はヘルート党を経てリクード党に続き1977年にはついにベギンが首相となる。その間イスラエルはジャボチンスキーの「鉄の壁」ドクトリンを実行し続けていたのである。

私はこういった「修正主義者」の活動が、強大なパトロン無しに、彼らの思想と意思と情熱だけで達成されると信じるほどお人好しではない。「修正主義」の流れが英国に潰されずむしろ強大になっていったのは、ダブルスタンダードの英国が一方の手で彼らを支えていたか、英国も黙るほどの巨大なパトロンが控えていたか、あるいはそのすべてが茶番劇であり各関係者同士の「了解事項」として進められていたか、の、いずれか以外には考えようが無いのではないか。

確かにムッソリーニ個人は『負け馬』に違いない。いや、もっと正確に言えば『負け馬の皮』ではなかったのか。脱ぎ捨てられ放り投げられた『皮』は間違いなく『負け馬』であろう。しかしその本体は? イスラエルの一方でイタリアでもファシズムが消えることは決して無く、バチカン(オプス・デイ)や英米諜報部と密接につながりながら、公開されない部分で実力は十分に維持され拡張すらされてきている。シオニズムとイタリア・ファシズムとの関係は、本当のところ一体何だったのか?

●この第2次大戦前のシオニストとムッソリーニとの関係については、ジャボチンスキー自身からちょっと離れて他の方面からも眺めてみなければならない。しかしその前に、今現在、西アジアと欧州から米国にまたがって、茶番劇の舞台裏で世界を操るユダヤ・ファシストの影を追ってみたい。

【追補】

もう一人の『負け馬』であるヒトラーに、ロックフェラー、ブッシュ爺、ハリマン、フォードなどを含む米英資本のパトロンがちゃんと控えていたことは周知の事実であろう。どうやらシオニストもヒトラーと「浅からぬお付き合い」をしていたようだ。しかし彼もまた『皮』に過ぎなかったであろう。本体であるドイツ大資本およびそれにつながる米英大資本は、びくともしないばかりかますます繁栄を極めている。さらに「バチカン・ラットライン」からも明らかなように諜報組織にもツーカーの連絡網があった。このドイツの極悪人は、生きて利用する価値が無くなったときに捨てられて、その後にはそれぞれの立場で都合の良いようにその悪名を利用される「偉大な役」を、そのパトロンからおおせつかったとみえる。

ヒトラーを「悪の権化」に祭り上げておいて人々の怒りと警戒をそこに集中させ、その陰で好き放題に悪事をはたらく一枚上手の悪党どもが多いようである。コイツらは必ず「ホロコースト」を持ち出す。ネオコンの教祖レオ・シュトラウスとブッシュの一党はもちろん、このシリーズの(2)に登場するイタリア・ネオ・ファシストとイスラエルの直系ユダヤ・ファシストなど、格好の例だろう。(ベルルスコーニやフィニがヒトラーへの悪口を上手に利用していることは有名。)当然だが、コイツらはヒトラーのパトロンやってた連中と直接・間接の豊富なつながりを持っている。

ところで『勝ち馬』の一人となったスターリンはどうだろうか。スターリンとシオニズムの関係は、いろんな資料はあるのだが、本当のところを探るのには少々面倒なようだ。これは後年の課題としておこう。

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(2)ゾンビどもの跳梁

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(2)ゾンビどもの跳梁

http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/389.html

投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 11 月 20 日 09:10:47: SO0fHq1bYvRzo

これは下の阿修羅投稿に続くものです。

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http://asyura2.com/0505/holocaust2/msg/380.html

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで

(1)ユダヤ・ファシスト、ウラジミール・ジャボチンスキー

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ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで

(2)ゾンビどもの跳梁

●どのような悪も悲劇も、それが「過去のこと」で終わっているのなら、悪党どもが死んでそれで終わっているのなら、あとは正確に研究して記録し、将来のための教訓とするべきものであろう。

しかしもしその悪党どもがゾンビのように生き続け、正体を誤魔化して過去にも増して活発に悪事を働き続けているにもかかわらず・・・・、「教訓とすべき過去」を語る、などとというのであれば・・・・、ましてそれを語る者たちが紛れも無いそのゾンビども自身とその手先であるとするならば・・・・、その悪と悲劇は3倍にも5倍にもなって将来に降りかかることになる。

●次の資料はJewschoolというサイトの中の1ページである。標題のLikudnik Fascholesはおそらく「ファシストのリクード党」という意味であろう。またモビウス(Mobius)という筆名の著者はどうやらユダヤ系の「オーソドックス・アナーキスト」を自称しているようだ。

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http://www.jewschool.com/2003/11/likudnik-fascholes.php

ファシストのリクード党

投稿Mobius 2003年11月24日

第2次大戦中のイタリアの独裁者であったベニト・ムッソリーニの孫娘が、世界中がイスラエルからの「許しを請わねばならない」、と言った。

ワーォ。

イタリアのネオ・ファシストである国民同盟党のメンバーであるアレッサンドリア・ムッソリーニは、ジアンフランコ・フィニ【訳注:イタリアの副首相兼外相】といっしょにイスラエルを巡回しているのだが、フィニはまた今週「自分の国のファシスト的過去を非難しそして人種主義やアンチ・セミティズムと闘うために学ぶべき教訓を語った」そうだ。

これは非常に奇妙な弁解であり、ある歴史的な疑問をもちあげるものである。たとえば、ファシスト・イタリアの中でユダヤ人たちがいかにひどい目に遭ったのか、そしてそのような言い訳が正当化されるようなものなのか。ある資料(The Jewish Pressからの引用)によると、

『イタリアのユダヤ人たちは、欧州の中で最も高度にその国に融合していたのだが、実際に他の国々の同胞たちに比べるとはるかに多く生き延びている。しかし、およそ1939年に35000名いた中の8000名のユダヤ人が収容所から戻ることは無かった。イタリア人たちが全体としては人種主義に嫌悪を覚えていた一方で、ムッソリーニはヒトラーと合意したとおりに1938年に人種主義法案を押し通すことに成功した。そしてイタリア軍はしばしばユダヤ人たちに対して人間的な態度をとったのだが、フローレンスやその他どこでもファシスト指導部はその殺人的な残酷さで悪名高かった。』

さてさて、こういうことだ。イル・ドゥーチェの殺人鬼ども、である。

しかしそれでも、他の問題が残っている。ウラジミール・ジャボチンスキーと彼の修正主義党は? しばしば「ユダヤのヒトラー」と呼ばれるジャボチンスキーは、ファシストであることとムッソリーニの友人であることを誇りにしていた。今日のリクード党が、アリエル・シャロンがメンバーの一人なのだが、実際にジャボチンスキーの修正主義党のなれの果てであることは注目されるべきことだ。修正主義党と全く同じように、リクードは、軍国主義的、拡張主義的、人種主義的な政治姿勢を提唱している。もしリクードがファシスト政党の流れにあるものならば、そのイタリア・ネオファシストたちとの関係は、ブッシュ政権との関係でもそうであるように、驚くようなことではあるまい。確かに驚くようなことではないが、しかし、どうあっても警戒すべきものである。

【引用、翻訳、終り】

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私に言わせるならば、著者の目はまだ甘い。現在のシオニストたち自身が、シオニズムにとって「イタリアではユダヤ人に対する抑圧がシオニズム発展のために必要なことであった」と事実上認めているのだ。

(参照:阿修羅投稿)

http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/671.html

ベルルスコーニを罵倒する:(3)シオニズム=イスラエルとのクサ~イ関係

イタリアでの『35000名いた中の8000名のユダヤ人が収容所から戻ることは無かった』状態を本当に望んだのは、ヒトラーなのか、それともシオニストなのか。

●次に、アルゼンチン労働党のネット週刊新聞プレンサ・オブレロ(労働新聞)からの引用で、標題は『嘆きの壁の中にいるムッソリーニ』、著者はパレスチナ社会主義労働者同盟のイツァーク・ベツァレル、日付は2003年12月4日である。

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Prensa Obrera

Semanario del Partido Obrero

http://www.po.org.ar/po/po828/mussolin.htm

嘆きの壁の中にいるムッソリーニ

Ytzhak Betzalel

Liga de Trabajadores Socialistas (Palestina)

国民同盟党の党首で、イタリアのポスト・ファシストの副首相であるジアンカルロ・フィニ【訳注:本当は「ジアンフランコ」なのだが、英語圏でしばしば「ジアンカルロ」と誤って書かれるようだ】は11月の終りごろにイスラエルを訪問した。首相シャロンの与党であるリクードの指導メンバーの一人ユヴァル・ステイニッツは、クネセット(議会)の外交・防衛委員会の委員長なのだが、フィニのことを「イスラエルとユダヤ民族の友人」(Haaretz, 26/11)であると宣言した。

ホロコーストとナチズム、および北イタリアにあったヒトラーの傀儡国家であるサロ共和国を「我が民族の歴史上の汚点である」と「非難した」一方で、フィニは、単にムッソリーニの政策の後継者である自らの責任ばかりでなく、ファシズムの社会的基盤、すなわち、民衆の政治的・社会的なあらゆる抵抗を抑圧するための、ブルジョア帝国主義の過激な政治論をも覆い隠したのである。挙句の果てには、フィニは大資本の代表として、自分の政党ではなくイタリア「国民」に、ファシズムの責任を負わせたのである。

しかしながら、フィニがエルサレムのヤッド・ヴァシェム(ホロコースト博物館)と嘆きの壁を訪問した理由は、第2次世界大戦中の何百万人もの虐殺されたユダヤ人(約1万人のイタリアのユダヤ人を含む)におけるイタリア・ファシズムの責任に関して悔い改めることではなく、パレスチナ人の闘いを押し潰すシャロンの政策を援助するためである。リクードの一部の政治家はそれについて『ここでの批判者の一部よりももっとシオニスト的である』と判定する。彼が「アパルトヘイトの壁」の建設を援助する数少ないヨーロッパ人の一人に違いないからである。駐イタリアのイスラエル大使エフッド・ゴルはフィニを『ヨーロッパで極めて重要性を持つ男であり、正義はイスラエルの側にあると考える男である』 (Haaretz, 26/11)と形容するのだ。

フィニは、イスラエルを中東で唯一の民主国家と持ち上げるのだが、民主主義と民主化の名をかたるファシストのやり口を表している。フィニはヤッド・ヴァシェムを訪れたときに「ショックを受け」て「恐怖を覚えた」のだが、しかし、シオニズムの本性をそのヤッド・ヴァシェム博物館で見つけられるはずがない。それはガザ、ラマラーや占領地のあらゆる通りで見つかるものなのだ。それはこのアパルトヘイト統治の中で、またイスラエル政府の資本家政治に対抗して戦うユダヤ人とパレスチナ人の労働者の持つスト権や他の権利を抑圧する意図の中に見つかるものなのだ。

結局のところ、シオニズムはホロコーストとファシズムに対する戦いを自分の手にしたことは無いのである。それはアンチ・セミティズムの協力者だったのだ。ゼエヴ・ジャボチンスキーはペティルラ(Petilura)と同盟を結ぶ交渉をしたのだが、この人物は897の異なるポグロムで28000人のユダヤ人を殺したポグロム指導者であるウクライナのファシストだった。ジャボチンスキーは、赤軍とロシア革命に対抗する反革命戦争でペティルラ軍勢と一緒に戦うためのユダヤ政治勢力を提案したのだ。

ムッソリーニはベタールの軍事組織を確立させたのだが、それはジャボチンスキーに率いられる修正シオニストの青年運動だった。彼らはそのファシスト連中に見習って黒いシャツを着ていた。メナチェム・ベギンがベタールの指導者になったときに、ヒトラー一味の茶色のシャツを好んだ。それがベギンとベタールのメンバーがすべての政治会議で使用したユニフォームであり、彼らはファシスト式の敬礼でその会議を賛美し開きそして閉会したのである。

1933年にはドイツのシオニスト支部がナチ党に援助の手紙を送った。その中でこの支部は次のように書いていた。『・・・・ドイツ人の生活に起こったような国民的生活の再生は・・・・同様にユダヤ民族グループの中にも起こらなければならない。』『新たな国家の基盤の上に、ナチはその民族の原理を確立させてきたのだが、我々は、我々の社会の構造全体、我々に割り当てられた領域の中に適用したいと熱望している。愛国心による実りのある活動は可能である・・・・』(L. Brenner, ‘Zionism in the Age of the Dictators’, Wesport. 1983:48)

「社会主義」シオニズムが何かよりましなことをやったわけではない。たとえば、ベン・グリオンは1938年に英国でのあるシオニスト労働党の会議で次のように指摘した。『もし私がドイツにいたすべての子供たちを英国に運んで救うことが可能であったと知っていたとしたら、そしてもしそのわずか半分だけがイスラエル(エレツ・イスラエル)に移送することが可能であったとしたならば、その場合には、別の選択肢を選んだであろう。(Brenner, idem:149)』 パレスチナを植民地化しアラブ人を追放するというこの妄想によって、シオニスト運動は、絶滅にさらされるユダヤ人を救出するあらゆる方法に反対したのだ。なぜなら、えり抜きの労働力をパレスチナに迂回させる可能性を妨害するかもしれなかったからだ。

1933年から35年までに、WZO(世界シオニスト組織)は、移住の許可書を請求したドイツのユダヤ人の3分の2を拒否したのである。

ヨーロッパにシオニストの政策に対する反対が盛り上がるときに、そしてパレスチナ人に対する同情が帝国主義戦争反対のデモの中や反グローバリゼーション運動の中に現れているときに、あのプロ・ファシストとシオニストの政治家たちは欧州のファシストどもの援助を必要としているのである。そして逆もまた真なのだ。

【引用、翻訳、終り】

*下は同記事の英語版へのリンク

http://www.po.org.ar/english/828art.htm

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「パレスチナ社会主義労働者同盟」に所属するというこの文章の筆者の視点は、シオニズムを本質的にはイスラエルの中の資本家階級による思想、と捉えているようだ。そして特にジャボチンスキーの流れを汲むリクード党は「労働者の敵」であると同時に「ナチスやアンチセミティズムに協力して同胞をヒトラーに売り渡したユダヤ民族の裏切り者」、「社会主義」シオニストたちにしてもそれに準ずる「多くのユダヤ人を見殺しにした裏切り者たち」である。現在においても都合が悪くなると欧州のネオ・ファシストと野合してアラブ人とユダヤ人労働者を抑圧する許しがたい暴君である、ということだろう。

筆者がシオニズムについて主に使用している情報はおそらく歴史家のレンニ・ブレンナーの研究によるものだろう。確かにブレンナーとその周辺の左翼の研究家たちが「シオニズムの裏切り」について最も豊富な研究を行っている。

●ただ、ここでちょっとジャボチンスキーから話がそれるのだが、この記事の著者イツァーク・ベツァレルだけではなく、ユダヤ人で左翼を自認する人たちのほとんどは「ホロコースト」が歴史的事実であったことを強固に信じている。その代表がブレンナーであり、『ホロコースト産業』の著者ノーマン・フィンケルシュタインであろう。

彼らのシオニストへの勇気ある挑戦と真摯な研究に対しては正直に敬服するが、ただその「ホロコースト」に対する姿勢が、彼らの中に致命的な欠陥を作りまた彼らにとってどうにもならない壁を作ってしまっているように思えてならない。(彼らほどの勇気と突っ込んだ研究も無しに尻馬に乗って彼らを自らの権威付けに利用するような連中はこの際相手にしない。)

彼らにとっては「ホロコーストとヒトラー」が「超越的・絶対的な悪そのもの」であり、これに関してはもはや「宗教的」としか言いようが無い。ちょうど「神」が超越的・絶対的な「善そのもの」であることの裏返しとなっているようなものだ。ブレンナーが自分の著作をある「レヴィジョニスト」に引用されて激怒した、と聞くが、まさに「ホロコーストとヒトラー」が『神聖不可侵な悪(?!)』となっているようだ。話がこれに及ぶともう理性も何も無くなってしまう。次のように述べるイズラエル・シャミールの方がはるかに理性的だろう。

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http://www.asyura2.com/0505/war74/msg/722.html

イスラエル・シャミールがシオニズムとの闘いを語る(レッ・ボルテール、レベリオン

【前略、引用開始】

そんな否定論の問題については全く知りません。一体どうしてフランス人が第2次世界大戦のことについてそれほど議論をするのか、それすら理解できません。それははるか昔に終わったことなのです。しかしご質問をされたのだからお答えしましょう。私が厳しく詮索するのはホロコーストに基づいた論調なのであって、その行為自体ではありません。これらの行為は一つの論調にそれをはめ込む瞬間から明確な意味合いを帯びてくるのです。そのホロコーストに基づいた論調は、一人のユダヤ人の生と死がゴイ【非ユダヤ人:訳注】のそれよりもずっと重要であるという考えに連結しています。私に言わせると、ホロコーストは、ヒロシマやドレスデンやあるいはレニングラードでの飢餓状態などの、他の戦争犯罪よりも悪い、と言えるものではありません。それは1939年から1945年までの間に作られた恐ろしい出来事の一つなのです。ホロコースト特有の宗教的・歴史的な意味は、私は拒絶します。私にとってそれは、あの戦争についてもっと平等な視点を持つ他の議論と並び立ちうる一つの思想を構築することなのです。

【後略、引用終り】

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ヒロシマの死者に対するシオニスト・ユダヤ人たちの「殺されて当然だ」と言わんばかりの傲慢な態度こそが、アウシュビッツの意味を失わせているのではないのか。すでに「肯定論者」からすら否定されている「600万人」を一歩も譲らないのが単に現在と将来の経済的な理由であることはみんなが知っていることである。

彼らの態度が上記のようである以上、現在「ホロコースト・プロパガンダ」「アンチセミティスト・レッテル貼り」に狂奔しているのが、イツァーク・ベツァレルが『あのプロ・ファシスト』と罵倒する当のシオニスト(ユダヤ・ファシスト)自身である現実を直視できないのだ。どうがんばっても精々が「絶対悪であるナチスに協力した『ユダヤ人に対する裏切り』」とその「道徳的罪」に対する非難で終わらざるをえないだろう。

現にブレンナーの著書「51の文書:ナチに対するシオニストの協力」に対して英国のシオニスト集団の機関紙Jewish NewsがAmazon.co,ukに圧力をかけた問題に関して、シオニストのJon Benjaminから「お前が言っていることは、9・11にイスラエルが絡んでいるなどという新しいアンチセミティズムを力づけるだけだぞ。それでもいいのか。」と脅しをかけられると、ブレンナーは(少々戯画化して描くが)「いやー、そのー・・・・。私も9・11とイスラエルは関係ないと言ってるんですがねぇ・・・・。私はただ独裁者時代のことを言っているだけなんでして・・・・。」と、とたんにしどろもどろになってしまう。こりゃ、だめだ。(ブレンナー氏は先日のアンマン爆破事件など、どう見ているのか? 過去の資料の研究に忙しくて現在の問題には盲目、というのなら何のための歴史研究なのか?)

(参照)

http://www.counterpunch.org/brenner05252005.html

The Plot to Stigmatize “51 Documents” on Amazon.com

事実はまさしく!Jon Benjaminの言うとおりなのだ! 『「9・11にイスラエルが関与している」と言うことが「新しいアンチセミティズム」』である!

これを多くの左翼ユダヤ人たちはどう見ているのか? かつてユダヤ人迫害を必要としていたのがシオニストであり、そのシオニストによる「ユダヤ人迫害の利用」は現在も延々と続いている、いや彼らの政治目的に沿ってますます強化されているのだ。この最も現在的な視点こそが「シオニズム研究」の眼目ではないのか?

彼らは決して「絶対悪に協力した裏切り者」などではない。ヒトラーとともに「絶対悪を演出した主犯」であり、さらにその背後に米英巨大資本(ブッシュ爺を含む)、およびその目標の実現に励む米英諜報機関がある。そして今日、またしても、「ナチズムに対する反感ゆえに?!米国のファッショ化に狂奔する!?」レオ・シュトラウスの一党と連なる極右シオニストが、「イスラム・テロの絶対悪」を演出しているのだ!

(参照)

http://asyura2.com/0505/cult2/msg/401.html

レオ・シュトラウスと宗教:翻訳と論考(3)

●ブレンナーが書きベツァレルが引用したと思われる箇所で、なぜ『1933年から35年までに、WZO(世界シオニスト組織)は、移住の許可書を請求したドイツのユダヤ人の3分の2を拒否』する必要があったと考えるのか? 『えり抜きの労働力をパレスチナに迂回させる可能性を妨害するかもしれなかった』とどうして言えるのか?

「労働力」というのなら、以下の阿修羅投稿でも明らかであるように、シオニストはアラブ諸国に「離散」していたユダヤ人たちを、爆弾テロを含むあらゆる手段を使って「迫害」を演出し、手当たり次第に強引に狩り集めていたのである。これが彼らの偽らざる基本姿勢なのだ。

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http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/454.html

「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第1部)

http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/535.html

「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第2部)

http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/622.html

「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第3部)

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また、アウシュビッツが「ユダヤ人迫害の場」(実際はユダヤ人と同時にジプシー、同性愛者、左翼主義者、心身障害者などに対する迫害の場)だったことに一点の疑いを持つ余地は無いにしても、『ユダヤ人を絶滅させるための場』でなかったことは、当の「絶滅収容所」を信じて疑わない(疑うことを許されない)人たち自身の調査からも明らかにうかがえることであろう。以下を参照していただきたい。

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http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/123.html

ナチ収容所で死んだ5000人のスペイン人たち(エル・ムンドより)

【引用開始、エル・ムンド紙の記事より】

証人の中に、唯一の女性であるアンへリネス・マルチネス、およびドイツ系ユダヤ人のシーグフィールド・メイァ(Siegfried Meir)がいる。メイァは最初両親と一緒にアウシュビッツに送られ、両親はそこで死亡したが、彼はまだ子供だったのでマウトハウゼンに送ってこられた。

「そこで1年を過ごしました。そしてその間にスペイン人の共和主義者、サトゥルニノ・ナバソと知り合いました。私たちが解放されたときに私は彼に、私を一人にしないでくれ、と頼みました。そして彼は私を連れて出ました。私のような子供を背負っていくのは大変なことでした。私は生きるために盗みを働くことに慣れていたのです。」メイァは語った。彼は現在フォルメンテラ(Formentera)で事業を営んでいるが、ドイツには決して戻ろうとは思わなかった。「私はドイツにはアレルギーを持っています。言葉に対してすらです。これは体にしみこんでいます。」他の兵士たちとはやや異なった視点から語るこの男はこのように強調した。

【引用終り】

http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/105.html

マウトハウゼン収容所でも「ガス室」の大嘘?

【引用開始】

またご紹介したエル・ムンドの記事に書かれているユダヤ人の少年シーグフィールド・メイァ(Siegfried Meir)についても「アレ?」と首をかしげました。両親がアウシュビッツで亡くなった、ということですが、労働力にならない小さな子供をわざわざポーランドのアウシュビッツからオーストリアのマウトハウゼンまで移送するのかな?と奇妙に感じたからです。

彼は解放の1年前、つまり1944年にマウトハウゼンに移されたようですが、アウシュビッツが本当に「絶滅収容所」なら、両親が死んだ後(その死因についてもエル・ムンドの記事には書かれていない)どうして労働力にならない彼を生かしてここに移したのか? 彼が一人のスペイン人の世話で苦しみながらも生き延びることができたのは本当に良かったのですが、それはともかく、「絶滅収容所」に関しては重大な疑問が残ります。

【引用終り】

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私は敢えてここでは他の「レヴィジョニスト」「ディナイアル」と言われる人の言葉は引用しない。あくまでも私の言葉と私自身が翻訳した文献の表現で語る。ここでこれ以上「ガス室論争」について深入りするつもりは無いが、「ホロコースト史観」に呪縛されている人たちの限界は、いかに彼らが真摯にシオニズムの邪悪さについて研究したとしても、明白であろう。彼らも結局はあの真正ゾンビどもが演出する「過去」に操られるだけのゾンビの一種と化してしまっているのではないのか。彼らが真面目な人たちであると信じるがゆえに、私はそれが残念でしょうがないのだ。

●今回はここまでとし、次回はジャボチンスキー自身と彼の「修正主義シオニズム」党の足跡を具体的にたどっていくことにしたい。

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(1)

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(1)

http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/380.html

投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 11 月 16 日 22:20:26: SO0fHq1bYvRzo

最初にお断りしておきますが、この「ユダヤ・ファシズム」とは私の造語ではなく、シオニズムの創始者チャイム・ワイツマンが、ウラジミール・ジャボチンスキーの「修正シオニズム」運動に対してつけた名称です。

またジャボチンスキー自身もファシズムを称揚し自らをファシストとして誇示していました。彼は1940年にニューヨークで死亡しますが、彼が基礎を置いた「ユダヤ・ファシズム」の流れは、シオニストとイスラエルの中で「極右排外主義武闘派」として強力な勢力へと育ち、血に飢えたテロリスト集団イルグンを経てリクード党に連なります。

そしてイスラエル歴代の首相――イルグンの統帥者でデイル・ヤシン大虐殺の実行犯メナチェム・ベギン;同じくイルグンの中心人物だったイツァーク・シャミール;サブラとシャティラのパレスチナ難民キャンプで大殺戮を繰り広げたアリエル・シャロン;そのシャロンも恐れる凶悪な民族排外主義者ベンジャミン・ネタニヤフ――を輩出することになります。加えて、チャイム・ワイツマンの甥で前イスラエル大統領のエツェル・ワイツマン、現米国大統領ブッシュの「師匠」であるナタン・シャランスキー等々を含む、押しも押されもせぬ血まみれの極悪集団の歴史を作ることとなります。

その間イスラエルは、パレスチナ人に対する大量殺人、拷問、生活破壊はもちろん、国内の人種差別に対する告発を脅迫と暴力で押さえ込み、そして「ホロコースト」を『水戸黄門の御印籠』として全面活用して他国を沈黙させ、その上でIAEAの査察を拒否しつつ400発と言われる核兵器を所有して中東と欧州各国を脅迫し、現在「対テロ戦争」の卑劣な謀略テロを通して中東一帯への支配権拡張に励んでいます。

まさにイスラエルこそ地上最悪の民族排外主義ファシズム国家と言えるでしょう。現在、欧州や米国で繰り広げられている「アンチ・セミティズム」レッテル貼り作戦は、そのイスラエル国家の正体を隠蔽してその野望を達成するために、彼らにとってどうしても必要な「我が闘争」なのです。

何回のシリーズになるのか、はっきりした予定は立ちませんが、私が調べて文章化できた限りのことを次々と発表していきたいと思っています。私自身も「今から勉強する」といったようなテーマですので、毎回あまり統一性は無いかもしれませんが、この系譜は日本ではどうやらあまり知られていないようですので、私が「尖兵」となって突っ込んでいきましょう。どうか私よりももっと才能のある人が、この「イスラエル国家とシオニズムの正体」解明の作業を完成させていっていただきたいと思っています。

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ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで

(1)ユダヤ・ファシスト、ウラジミール・ジャボチンスキー

●私がスペインの現代史を調べていてすっかり当惑してしまったことがある。たまたまだが、次の記事を読んだからである。

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http://www.forward.com/issues/2001/01.11.16/arts2.html

スペイン最初のファシストの生涯を再考する

アカデミーの外ではユダヤ人の恩人としてのハイル・フランコの声が

Jane and Burt Boyar著 『フランコに止められたヒトラー』への書評

ROMAN BRACKMAN

【前略】

すべて公式文書に残されていることだが、これらの事実は同時にユダヤ人の利益に対するフランコの努力を物語っている。恐らく6万人にも上るユダヤ人をナチの収容所から救った努力である。1940年に彼は、スペインで反ユダヤ人法を制定せよとのヒトラーの要求に対し、従うことを拒否した。その代わりにフランコは、フランス占領地とスペインの国境で行われたヒトラーとの会談の数ヶ月後に、マドリッドにヘブライ・セファラディック・近東文化の研究に専念する学究組織であるアリアス・モンタノ協会設立、および世界で最も優れたユダヤ文献である学術雑誌セファラディ(スペインおよびイベリア半島のヘブライ人)発刊の便宜を図った。彼はナチの追及を逃れるユダヤ人に対してスペインの国境を開き、スペイン大使館と領事館に保護とスペインのパスポートを提供するように命令した。

そればかりではない。1945年初頭にフランコは、英国の希望に逆らって、ユダヤ機関が収容所の生存者たちをパレスチナに密かに運び込むのを手伝った。1956年からは、彼はモロッコのユダヤ人たちに、スペイン領サハラを経由して一団となってイスラエルに向かって移動するための道を開いた。彼は1492年のスペイン・ユダヤ人追放令を破棄する公式文書にサインした。アラブ諸国がイスラエルに対して起こしたあらゆる戦争の間、フランコはアラブ諸国政府に対して処刑からユダヤ人を救うように個人的に仲介役を務めたのだ。

【後略。引用、翻訳終り】

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フランシスコ・フランコ(1892-1975)と言えば、ヒトラーやムッソリーニと手を組んでスペインに誕生した人民戦線内閣をクーデターによって倒し、国際旅団に参加した各国市民を含む数十万人を虐殺し、スペインに40年近い残虐な独裁政権をひいた、押しも押されもせぬファシストの代表格である。当然だがユダヤ人たちにとってはヒトラーと並んで蛇蝎のごとく忌み嫌うべき対象である・・・、というのがアカデミックな理解として無難なところだろう。

ところがそのフランコがユダヤ人を救うために多大の努力を払った、というのである。私も最初は目を疑った。しかしこの「フランコはユダヤ人の救い主だった」という話は、意外なことに様々な立場のユダヤ人から多く聞こえるのである。たとえば(引用はしないが)、

http://www.jpi.org/cshlcst1.htm

HOLOCAUST ‘MISCONCEPTIONS’(英語)

http://revista.libertaddigital.com/articulo.php/637

¿Fue Franco un antisemita?(フランコは反ユダヤ主義者だったか?:スペイン語)

http://www.travel-watch.com/Melilla.htm

The Jews of Melilla(英語)

先ほどの書評の著者である作家のRoman Brackmanも名前や経歴や他の著作からしておそらくユダヤ系と思われる。

●確かにフランコには、1492年のユダヤ人追放令の際にキリスト教に改宗して密かにユダヤ教を守り続けた、いわゆるマラノの家系ではないか、という疑いが昔からあるようだ。これについては以下の私の阿修羅投稿を参照していただきたい。

http://www.asyura2.com/0505/cult2/msg/365.html

オプス・デイ創始者はユダヤ系か?(フランコも?カストロも?)

http://www.asyura2.com/0510/war75/msg/662.html

否定論は未だに見つけていませんが、いくつかの興味深い資料をご紹介します。

しかしたとえ彼がユダヤ系のスペイン人であると自覚していたとしても、それだけで「ユダヤ人をヒトラーの手から救い出す」理由になるとは思えない。ユダヤ人といっても決して一枚板ではなく、ユダヤ人同士で凄惨に殺しあった例も多くある。現にフランコはスペイン内乱(1936-39)の最中に国際旅団に参加した大勢のユダヤ人たちを無残に殺害している。

次の資料を見ていただこう。これはセファラディ・ユダヤ人たちによるスペインの語サイト、Desde Sefaradの2005年8月22日の記事である。

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http://desde-sefarad.blogspot.com/2005/08/el-mito-judeo-masnico-los-judos.html

メーソン的ユダヤ人の神話:内戦時期のユダヤ人

【前略】

(ユダヤ人の)圧倒的多数派が共和国支持の立場をとった。しかしながら、英領パレスチナではジャボチンスキーの修正シオニズムがフランコとその反共主義への支持を打ち出しことは銘記されなければならない。(ワイツマンはこの潮流に対して「ユダヤ・ファシズム」と呼んだが、それは、彼の提唱する『大イスラエル構想』によってであるとともに、ムッソリーニ追随者としての媚態によってである。)

共和政府を支持する大勢のユダヤ人たちの熱烈な援助――国際旅団の中に6000人から8000人が志願した――そしてソヴィエトとヨーロッパの共産党指導部の多くがユダヤ人であったことが、ファシストのプロパガンダが共産主義をユダヤ的性格のものであると強調するのに好都合だった。こうして「ユダヤ・メーソン・共産主義」というごちゃ混ぜの神話をひろめるに至ったのである。

【後略。引用、翻訳終り】

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たとえフランコが自らの出自をユダヤ系だと認識していたとしても、要するに、共産主義を支持している(と思われる)者は何人であろうと彼の敵だったのである。しかしここに奇妙な人物の名前が見える。ジャボチンスキー。

このウラジミール・ジャボチンスキーなる人物の唱えた「修正シオニズム」とは一体何か? 『大イスラエル構想』とは? ムッソリーニとフランコの反共主義とファシズムを支持したこの男はそもそも一体誰なのか? そして彼の運動がその後の歴史にどのようにつながっていくのか? またこの「ユダヤ・ファシズム」がイタリア・ファシズムやドイツ・ナチズム、スペイン・フランキズムなどと、どのような関係にあったのだろうか。

彼がイスラエル建国はおろか第2次世界大戦の結果すら知らずに1940年にこの世を去ったために、ジャボチンスキーの名はもちろん彼が種を蒔きそれが成長していった結果の重大さについて、特に日本では、あまりにも認識がなされていないように思える。

その運動の人脈や思想的脈絡、そしてそれ以降の政治的動乱の中に刻まれるこの「ユダヤ・ファシズム」の巨大な爪跡を見るならば、それが単にリクード党の「始祖」となった、というだけでは収まらない、20世紀以降の世界の流れを形作るもっともっと巨大な実体の一部が顔を出したのではないのか、と思われてくる。

しかし相手はあまりにも大きい。一気に結論を出すことはできまい。まずはその人物像から見ていってみよう。

●電網百科事典Wikipedia(英語版)からZe’ev (Vladimir) Jabotinskyの項目を開いてみよう。そして彼の生涯の要点を拾ってみる。なお、Revisionists-Zionistsについては、日本では一般的に「修正シオニスト」と訳されており、ここではそれに従うことにする。

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http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Jabotinsky

Ze’ev (Vladimir) Jabotinsky

【翻訳と要約】

ゼエブ(ウラジミール)・ジャボチンスキーは1880年10月18日にウクライナのオデッサで、伝統的なユダヤ人の家庭に生まれた。若くしてジャーナリストを志し、16歳の時にはオデッサで新聞を発行した。後にロシアの新聞の記者としてスイスとイタリアに渡り、ローマ大学で学ぶ。ロシア語、イーディッシュ語、ヘブライ語で記事を書く非常に優秀な記者として有名であった。

しかし1903年のキシネフでのポグロムの後、ジャボチンスキーはシオニスト運動に参加し、すぐにその中で頭角を現す。ポグロムが打ち続く間、彼はロシア中のユダヤ社会の中に自衛団を組織する。そしてテオドル・ヘルツルにとって最後のものとなった第6回シオニスト会議で代表に選出される。

第1次世界大戦中は、当時パレスチナを支配していたオツマン・トルコに対してユダヤ人部隊を組織して英国と共に戦闘に参加する。その後彼はロンドンに渡り、英国軍の一部としてパレスチナで戦うユダヤ人部隊を設立させるために努力するが、英国政府はやっと1917年になってそれを認めた。そして1918年のヨルダンの谷での戦いに参加するが、英国は彼らの参加を歓迎しなかった。

戦後、ジャボチンスキーはパレスチナでの第1回代表者会議に出席し、1921年には世界シオニスト組織の代表委員会委員に選出された。しかし、その議長であるチャイム・ワイツマンと意見が対立してこの組織から離れ、「修正シオニスト同盟(Allinance of Revisionists-Zionists)」、およびその青年組織「ベタル(Betar)」を設立した。その主張は、シオニスト運動は「ヨルダン川の両岸」に沿ったユダヤ人国家(a Jewish state along both banks of the Jordan River)を作る、というものであった。そして彼の目標は大英帝国の援助を受けて近代的なユダヤ人国家を作ることだった。その哲学はシオニスト労働党(Labor Zionists)のものとは対照的であり、それは欧州の中産階級(資本家)ユダヤ人の理想とした経済・社会的政策に焦点を当てていた。彼のユダヤ人国家の理想は英国モデルを基本にした近代的自由民主主義であり、主にポーランドが支持基盤であった。

1929年にジャボチンスキーは第6回シオニスト会議に出席するためにパレスチナを離れたが、英国当局はアラブの圧力を受けて彼の帰還を許可しなかった。彼の作った運動は一枚板ではなく、三つの流れに分かれていた。ジャボチンスキーは英国の協力を望んでいたが、より民族主義的傾向が強いDavid Raziel、Abba AhimeirやUri Zvi Greenbergなどはパレスチナ委任統治領での独立運動に照準を当て、労働党や英国当局、そしてアラブ人と戦った。David Razielはイルグンの指揮官であり、Abba AhimeirとUri Zvi Greenbergは軍事組織レヒを作ろうとしていた。この修正シオニスト党のイルグン派がヘルーッ、そして中間派の汎シオニスト党を吸収してリクードとなる。ジャボチンスキーの愛弟子で最大の者の一人に、イルグンとベタルのリーダーで後にイスラエル首相となるメナチェム・ベギンがいる。

【以上。引用、翻訳と要約、終り】

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不思議なことにこのWikipediaの記事は1930年代のジャボチンスキーの言動や1940年の彼の死に関して一切触れていない。Wikipediaにしては極めて不自然であろう。さらに彼がファシストを名乗りムッソリーニに傾倒しフランコを支持していたことも、その気配すら書かれていないのだ。

つまり、ジャボチンスキーを知るに当たって最も重要な時期のことがスッポリと抜け落ちているのだ。これほど重大な人物に、最も激動の時期であったはずの最後の10年間についてのデータが残っていないはずは無い。よほど「それを書かれると都合が悪い筋」からの圧力があるのだろう。それ以外に考えられない。

●次に再びスペイン語のサイトに進もう。これはエクアドルの反体制系ネット情報誌エクアドル・インディーメディアに載せられた2003年の記事だが、ユダヤ人のジャズ(サキソフォン)演奏家、作家、左翼の思想家として有名な英国在住のジラッド・アツマンが書いた英文記事をスペイン語に翻訳したものである。(英語原文はまだ見つけていない。)

題名は『最も日常的なイスラエル国民の過ち』である。この中から抜粋してみよう。ただしどうやら自動翻訳を使用したとみえて少々分かりにくいスペイン語になっており、ひょっとすると一部の箇所が原文と異なる意味になっている可能性もある。

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http://ecuador.indymedia.org/es/2003/09/3448.shtml

LOS ERRORES MAS HABITUALES DEL PUEBLO ISRAELI

Gilad Atzmon  04.09.2003  Centro de Medios Independientes

最も日常的なイスラエル国民の過ち

ジラッド・アツマン

2003年9月4日  独立メディアセンター

【前略、翻訳開始】

7.彼らは「ユダヤ国家」という概念が正当なものであると吹き込まれている

この過ちは20世紀の文化的な変化の不正確な読み取り方の結果である。シオニズムが誕生したときにそれは一つの正当なイデオロギー的哲学以上のものであった。19世紀の欧州ナショナリズム運動の一部を形作っており、時がたつに連れて他者に対する憎悪が知的な議論の中と欧州の政治の中で激しくなっていった。修正シオニストたちは、ウラジミール・ジャボチンスキーに率いられたのだが、イタリア・ファシズムをおおっぴらに賛美し、ムッソリーニを思想的指導者と見なしていた。それどころか、ジャボチンスキーは、ヒトラーがそれをまだ口に出すことすらしなかった早い時期から、人種的な純粋性の思想を採用したのである。その時期にはシオニズムが人種的純粋性に基盤を置いた民族国家を掲げる唯一の思想というわけではなかった。しかしながら、第2次大戦とナチズムの崩壊の後に事態は変わってしまった。人種的純粋性を基盤にした国家の思想はその正当性を失った。米国型を含めて新たなファシズムは多民族型である。実際のところ、イスラエルが人種的純粋性を基盤にした国家として唯一残っているものなのだ。ユダヤ人国家は正当性の概念を捨ててしまっている。

【引用、翻訳、終り】

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著者のアツマンはイスラエルをナチス・ドイツが消滅した後に残る唯一の「人種的純粋性を基盤にしたファシズム国家」であるから正当性が無い、と語っているようにも見える。これが当を得ているかどうかは別として、ジャボチンスキーがムッソリーニのファシズムを手本にした、「アーリア民族」の優越性を説いたヒトラーをしのぐほどの激しい人種主義者であったことが述べられている。

●これに関連して、もう一つの資料を見てみよう。パレスチナでのシオニストの悪業を告発しているPalestineRemembered.comというサイトに載せられた『ゼエブ・ジャボチンスキーの簡単な紹介と発言』と題された文章からである。(原文は英語)

http://www.palestineremembered.com/Acre/Famous-Zionist-Quotes/Story640.html

Ze’ev Jabotinsky-A Brief Biography & Quotes

ゼエブ・ジャボチンスキーの簡単な紹介と発言

【前略、翻訳開始】

シオニスト指導部の主要な流れとは逆に、ジャボチンスキーはおおっぴらに彼の考えを話した。そして彼もまた、我々の意見では、パレスチナ人に対してシオニスト運動が導く方向に戦略的な影響を与えていた。最初の時点から、彼はシオニストの指導部にいるイデオローグ(たとえばベン・グリオンやモシェ・シャレット)――パレスチナ人を騙してその土地と権利を売るようにさせることができると考えていた者達――を批判した。ジャボチンスキーは、ユダヤ人の権利がパレスチナ人の権利を上回っていると考え、そして、ユダヤ人とパレスチナ人の衝突は不可避であるとシオニズム運動に対して警告した最初の人間だった。そしてこのことは無視されるべきではない。その一方で彼は、この件を解決するためにパレスチナ人たちと交渉するのではなく、避けられない衝突を抑えるために武力を使用することを主張した。この点について彼は1923年に次のように述べた。

『アラブ人たちは自分の国をユダヤ人がそうするのと同様に愛していた。本能的にだが、彼らはシオニストの願望を十分に理解した。そしてそれに抵抗する決定は全く必然的なものだった。・・・・・・ユダヤ人とアラブ人の間には何の誤解も無かった。ただ当然の衝突があっただけだ。・・・・・・パレスチナ・アラブ人とは何の合意も可能ではなかった。彼らは自分が「鉄の壁」に相対していると解った時にのみ、シオニズムを受け入れるだろう。そのときに彼らはユダヤ人国家を受け入れる以外に選択肢の無いことを気付くのだ。』

ジャボチンスキーの「鉄の壁」ドクトリンは、1920年に多くのシオニストが彼に人種主義者の烙印を押すもととなった。ところが、ドイツでナチが権力を握ったとき、ベン・グリオンと他のシオニスト指導者たちはジャボチンスキー・ドクトリンの『重要さ』を悟った。皮肉なことに、イスラエル政治的右派の主張が、1930年代から現在に至るまでパレスチナ人に対するイスラエルの政策を支配してきたのである。

【引用、翻訳、終り】

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なるほど。後のイスラエル労働党となるシオニスト主流派は「パレスチナ人を騙してその土地を取り上げる」で、ジャボチンスキーの武闘派は「パレスチナ人を殺してその土地を取り上げる」ということだったらしい。まあいずれにせよ「目クソ鼻クソ」の類であり、この文章が述べているように労働党もリクード党も本質的には何の変わりも無いのである。また『「鉄の壁」ドクトリン』は現在イスラエルにそびえる「分離壁」を連想させる。この壁を作ったのがジャボチンスキー集団の直系リクード党のアリエル・シャロンであるのもなかなか示唆に富んでいるようだ。

もちろん上記の文章はパレスチナの立場から(ただしこのサイトの本拠地がパレスチナに置かれているとは思えないが)のものなのだが、これを作成するために使った資料は、おそらくレンニ・ブレンナーを代表とする左派系のユダヤ人たちのものと思われる。ジャボチンスキーを「始祖」とする「修正シオニズム」とナチズム、ファシズムの関係についての研究は彼らの労に負うところが大きい。

●今回はここまでとして、次回からはレンニ・ブレンナーの秀逸な研究の紹介、リンドン・ラルーシュとその運動による現代ファシズム・シオニズムへの論考の紹介を中心に、20世紀の隠蔽された歴史を探っていきたいと思っている。