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 自由貿易主義への逆風

自由貿易主義への逆風

ベルナール・カセン(Bernard Cassen)

ル・モンド・ディプロマティーク編集部

訳・三浦礼恒

 ポンチョとソンブレロを身につけたラテンアメリカの農民が、うずくまって意気消沈している。背にしている巨大な地球が、転がってきて彼を押しつぶそうとしているのか、逆に背もたれになっているのかは分からない。イギリスの超自由主義的な週刊誌、エコノミストのカバーストーリーを最近こんなイラストが飾った(1)。この記事は「グローバリゼーションによる疲弊」と題されていた。もう数日後であれば、もっと人目を引く見出しが付けられたところだろう。除草剤を服用して自殺した韓国の農民、チョン・ヨンプムの死を取り上げて、「グローバリゼーションによる死」と銘打てばよい。彼の自殺は、半島の小農民をじり貧に追い込んでいる農産物市場の自由化に対する抗議だった。自由貿易への熱意にかけては世界貿易機関(WTO)に負けず劣らずの地域機構、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議が11月18、19の両日に釜山で開かれる数日前の出来事である。この不幸な農民は、近郊の小村の村長だった。


 よくできた見出し、つまり重要な瞬間がたった数語に凝縮された見出しは、時に言葉以上のことを告げてくれる。チョンの死を報じたある記事の見出し「自由主義に韓国農民の怒りが爆発、APECは動じず(2)」が目を引くのもそういうことだ。予想の通りと言えなくはない。エコノミスト誌のくだんの論説のサブタイトルは、大衆のことなど眼中にないという態度で釜山に集った各国の首脳たちに、いわば前もって道徳的な弁明を与えていた。メインタイトル「グローバリゼーションによる疲弊」の主であるアンデスの農民は、完全に誤っている。つまり、サブタイトル「貿易自由化その他の形での開放が、これまでになく必要になっている」ことを理解していないからだ。

 ここには香港でのWTO閣僚会議を目前に控えた現在の状況が要約されている。大衆は自由貿易を中心教義とした新自由主義に対して異議、さらには拒絶を表明する。政治指導者たちはそれに背を向けて仲間内で駆け引きする。国際金融機関の代表や多国籍企業の経営者(3)、大手メディアは「ますます」の自由化をけしかける。彼らの共通の合い言葉は、香港で「ドーハ・ラウンドを守りぬく」であるが、様々な利害の矛盾、特に農業問題を考えると障害が山積みだ。

 2005年12月が合意期限だと騒ぎ立てるのは単なる戦術だけからではない。2001年に開かれたWTOドーハ会議に始まる全方位的な貿易交渉ラウンドは、絶対に2006年12月までに妥結しなければならない。というのは、かの有名な「ファストトラック」権限、つまり交渉済みの貿易協定を議会が採決するだけで修正できないようにする政府の交渉権限が、現在アメリカ議会からブッシュ大統領に与えられているのだが、それが2007年6月に切れるからだ。香港での合意なしに、彼がこの白紙委任状を更新できるかは何とも言えない。もし香港で落とし所が定まった場合、協定の形を整えるための期間として、2006年の12カ月間はありあまるほど長くはない。

 形勢は自由貿易の礼賛者たちにとって有利とは言いがたい。彼らはごく最近、11月4~5日にアルゼンチンのマル・デル・プラタで開催された第4回米州サミットで見事に失敗した。アメリカはWTOや、それ以上に米州自由貿易地域(スペイン語・ポルトガル語ではALCA)で画策している自由化の問題に関し、自国の見解を押し通すことができなかった。このサミット史上で初めての事態である。メルコスル諸国(アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ)の首脳に支持されたベネズエラのチャベス大統領の断固たる姿勢に直面したブッシュ大統領は、チャベス大統領が「もはや崩れ去った」というALCA交渉の再開期日を設定することもできなかった。

 ラテンアメリカ大陸のあらゆる社会運動が反対闘争を繰り広げるALCA構想は、カナダ、アメリカ、メキシコ間で締結され、メキシコの農民に大損害を与えている北米自由貿易協定(NAFTA)を西半球全体に押し広げようとするものだ。ワシントンが力関係の働く二者間交渉によって、多国間の枠組みで得られなかった成果を獲得しようとして、二国間協定を重ねているのは事実である。しかし、ベネズエラの年内加盟が見込まれるメルコスル諸国(4)が示している結束は、今やアメリカが考慮せざるを得ない要素となっている。

 この10月の第33回ユネスコ総会で、文化的表現の多様性の保護と促進に関する条約が採択されたことも、アメリカの敗北であり(反対票を投じたのはイスラエルのみ)、自由貿易主義の敗北であった(5)。これまでは文化分野の国際的な取引についてもWTOが唯一の規制機関(実際には規制緩和機関)となっていたが、この条約によってユネスコとの共同管理体制が確立されることになる。まだ決定的であるとは言えないが(ワシントンは立場の弱い国々に批准を思いとどまらせるための妨害工作を試みるだろうし、WTOのルールと条約のルールが相容れない場合の解決策はまったく考えられていない)、香港WTO会議が実施をめざす唯一の「規律」、すなわち商品貿易ルールの全面適用を公式に免れる分野が出現したということだ。

北半球に広がる不安感

 自由貿易の危機を証拠だてるのは、ユネスコ条約への賛成を政府に促すために文化人が連携して運動を行ったことだけではない。ヨーロッパその他の国々では、サービス貿易に関する一般協定(GATS)に地方公共団体が反対する動きが起こっている。GATS「域外」もしくは「反対」を象徴的に宣言し、WTO交渉の一時停止を求める地方が増えてきている。

 この動きはEUの中では、オーストリア、ベルギー、スペイン、フランス、イギリス、イタリア、そして最近では(小規模ながら)ドイツに広がっている。この10月22日と23日には各国の地方公共団体がリエージュでヨーロッパ会議を開催し、マンデルソン欧州委員(通商担当)の交渉権限の変更や、非常に重要なサービス分野のWTO交渉からの除外などを求める決議を採択した(6)。スイスとカナダでも同様の動きが広がった。モントリオール、ウイーン、パリ、トリノなどの大都市はGATS反対を宣言した。ジュネーヴのWTO本部が「WTO域外」宣言地域に位置しているというのは、なんとも痛烈な皮肉である。

 それほど知られていないが、アメリカでは住民に押された州や市の間で、企業の海外移転に反対し、地元企業を優遇するという決定が増えている。仮にEUの中で同様の動きが起きても欧州委員会が認めようとしないのは明らかだ。

 2003年1月から2005年6月の間に、連邦を構成する50州のうち46州の議会で事業移転反対法案が少なくとも審議にかけられた。それらの法案には、コールセンターの立地の公表、事業移転を事前に州に通知することの義務付け、国外へのデータ移送に関する法的規制、公的支援の廃止といった内容が盛り込まれている(7)。

 公共事業については地元あるいは国内の企業を優遇するという規定を設ける州も増えてきている。メリーランドやコロラドなど一部の州ではさらに踏み込んで、連邦政府が調印した国際貿易協定(NAFTAやWTO)に関して州の上下両院に承認を求めることを知事に義務付けた(8)。

 北半球のこうした動きの背後にあるのは、労働力の安い国々が先頭に立って「比較優位」を迫ることになる歯止めなき自由貿易主義の圧力の下で、個人レベル、集団レベルの社会保障がいずれも破綻しつつあるという感情であり、それがますます公然と表明されるようになっている。EUの場合に、最低賃金と社会保障の引き下げ競争をお膳立てしているのは、本国主義を残したまま(子供だましのような小手先の制約を付け加えただけで)欧州議会の域内市場委員会で採択されたボルケスタイン指令案である(9)。アメリカでは中国(2005年には2000億ドルの対中貿易赤字が生じた)とインドの影が、あらゆる決定の上に垂れ込めている。

 安上がりの膨大な労働余力を擁した2つの超人口大国(両国だけで人口25億人を超える)には、世界の貿易地図を極めて短期間のうちに塗り替える力がある。中国はやがて、あらゆる工業製品を(ごく一部の超ハイテク品を除いて)その「自由共産主義」の枠組みの下で生産できるようになるだろう(10)。インドの場合は近い将来、世界が必要とする知的サービスのうち、海外移転可能なものを一手に担うようになるだろう。

 とはいえ、海外移転によって最も大きな恩恵を受けているのは、現地に進出して自国市場向けの輸出を行っている北半球諸国の大手多国籍企業である。1994年から2003年にかけての中国の輸出増大のうち、65%はこれらの大企業が占めている。大企業が貿易の全面的な「自由」を熱烈に求めるのはこのためだ。その最終的な目的が賃金レベルの切り下げにあることは、かつてフランス企業運動(MEDEF)で専門家として働いていたジャン=リュック・グレオーが見事に論証した通りである。彼の近著(11)は自由貿易に対する最も容赦ない告発文書の一つとなっている。

 賃金労働者に対して現在進行中の攻撃はすさまじいものである。さらに新たな産業分野の従事者が、尊厳ある生活の「郊外」に大挙して追いやられるようになれば、政治指導者たちも重大な問題に直面せざるを得ない。彼らがこうした事態の深刻さを理解するためには、一体あとどれぐらいの時間が必要なのだろうか。

(1) エコノミスト誌(ロンドン)、2005年11月5-11日号。

(2) ル・モンド2005年11月21日付。

(3) 2005年11月8日付のフィナンシャル・タイムズ紙は、ヴィヴァンディ・ユニヴァーサルの監査役会会長を肩書きとしたジャン=ルネ・フルトゥその他の国際的な財界人たちが、「過去半世紀にわたって生活水準向上に大いに貢献した」多国間貿易システムを救うために必要な妥協点を探るよう諸国政府に懇望する声明文を掲載した。

(4) 2005年12月9日に首脳会議で正式に承認された。[訳註]

(5) アルマン・マトラール「文化多様性条約をめぐるユネスコの対立」(ル・モンド・ディプロマティーク2005年10月号)参照。

(6) 2005年10月23日のリエージュ決議については次のサイトで閲覧可能。http://www.agcs-gats-liege2005.net/

(7) このうち11州では最終的に11の措置が可決された。同様の主旨の9の政令が7州の知事によって署名された。

(8) これら一連のデータは資料豊富な次の調査から引用した。ジャン・デュヴァル「アメリカ、その法規、その保護」(『BRN通信』16号、2005年11月7日)。

(9) 「サービスの自由化」に関するボルケスタイン指令案には、他の加盟国で事業を行うEU企業が進出国の法律でなく本国の法律に従えばよいとする「本国主義」が盛り込まれている。それに対してフランスなどで反発が高まった2005年春、欧州憲法をめぐる国民投票への影響を懸念したシラク仏大統領は、指令案の「全面的検討」を唱道した。その後も採択に向けた手続きは進行し、2006年1月には欧州議会での票決が予定されている。[訳註]

(10) フィリップ・コーエン、リュック・リシャール『中国はわれわれの悪夢となるのだろうか』(千夜一夜社、パリ、2005年)参照。

(11) ジャン=リュック・グレオー『資本主義の将来』(ガリマール社、パリ、2005年)。

(2005年12月号)

All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Miura Noritsune + Hiroi Junnichi + Saito Kagumi

 ハリウッドの映画経済

ハリウッドの映画経済

ハーヴェイ・B・ファイゲンバウム(Harvey B. Feigenbaum)

ジョージ・ワシントン大学政治学教授、ワシントン

訳・三浦礼恒

 アメリカが世界最強の映画産業を築くことができたのは、ハリウッドの製作会社が常に支配的な経済モデルと同様の生産方式を採用し、グローバリゼーションの処方箋を採り入れてきたからだ。ところが、今年に入ってからアメリカ人は映画への関心が薄れ、DVDもあまり買わなくなった。映画経済は危機に陥っている。[フランス語版編集部]

原文 http://www.monde-diplomatique.fr/2005/08/FEIGENBAUM/12406

 1914年ごろ、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のハリウッドに、映画製作スタジオが作られた。映画のパイオニアたちが東海岸を離れて、撮影により適した気候、より変化に富んだ景色のある地へ移動したのは、ニューヨーク一帯をほぼ手中に収めていたエジソン財団の支配から逃れるという意味も大きかった。スタジオの多くはユダヤ人投資家たちによって設立された。彼らは小口の商売のやり方をヒントに、主な顧客として貧しい移民を想定して、映画産業を発展させていった。ヨーロッパで映画がまず新奇なもの、次いで芸術的なものとして発展したのに対し、アメリカの映画は当初から大衆消費を指向していた。続々と移民の波を受け入れ、住民の教育程度が低く、無数の言語が話されるこの国で、無声映画は急速に多くの町において人々に最も人気のある娯楽となっていった。

 初期の観客はとにかく何でも見たいという態度だったため、供給がとても追いつかず、フィルムは布地のように量り売りされていた。だが、1905年ごろから、動画の目新しさだけでもはや人々を引きつけられず、映画はストーリーの名に値するような固有の言語体系を考えださなければならなくなった。この変化は制作体制を転換させた。ヘンリー・フォードが「お好きな色をお選びください、ただし黒の中から」とうそぶいた自動車と違って、映画はそれぞれ独自のシナリオによる。個々のフィルムは規格品というよりもプロトタイプとして作られていた。初期のハリウッド実力者のひらめきは、こうした不安定要因を猛然と抑えこんだところにある。最初の大規模な規格化は、後に現れることになるジャンル(西部劇、ファンタジー、ミステリー、メロドラマ)ではなく、「人」を基準にして進められた。俳優の人気は予測可能な変数だったので、映画産業は成功を確実にするための最善の方法として、スターシステムを考えだした。人々が銀行強盗や月面旅行の物語に興味を示すかどうかはまったく分からないが、自分のひいきの俳優が出ている映画なら好んで見るということは経験から明らかだったからだ。こうして、スタジオはスターと長期契約を交わし、だんだんと制作スタッフを従業員化するようになった。

 フォードやスタンダード石油が経済を支配する大規模独占の時代になると、垂直統合(1)が一世を風靡した。アドルフ・ズーカーやマーカス・ロウ(パラマウント映画の共同設立者)のような企業家は、映画館の経営から始めて製作に進出するという経緯をたどった。彼らに続く企業家たちは、配給網と興行網とを押さえにかかった。スターシステムと垂直統合の結合は、ハリウッドに大スタジオ(MGM、ワーナー・ブラザーズ、20世紀フォックス、パラマウント、ユナイテッド・アーチスツ、RKOなど)の誕生をもたらした。だが、この体制は、スタジオに映画館の分離を命じた1948年のパラマウント判決によって一変する。興行網の売却は映画製作の力学を変えることになった。さらに1950年代初頭にテレビが登場したことで、これらの企業の独占状態は極めて厳しい打撃を受けた。

 当初、テレビはラジオによって既に確立されていたモデルをそのまま踏襲していた。番組の多くは生放送で、スポンサー企業が企画したものだった(俳優時代のロナルド・レーガンはゼネラル・エレクトリックのよさを誉める番組を司会していた)。財務面でもラジオと同様だった。番組の費用は広告によって負担され、視聴料を支払う必要はなかった。入場料を支払う必要のある映画は、一見して無理のある競争に直面していた。

 そこでハリウッドは、ワンランク上の製品として長編映画に着目した。シネマスコープやシネラマ、パナビジョンなど、派手な大画面方式を開発した。海外ロケを増やし、カラーを多用するようになった。テレビという技術に対して、別の技術(カラー技術、大画面に収めるためのアナモルフィック・レンズ)をもって対抗しようとしたのだ。次いで、映画スタジオはテレビが別の種類の長編映画の大きな販路にもなり得ることを理解して、テレビ向けの制作部門を立ち上げるようになった。

産業クラスター方式から地理的分散化へ

 1970年代初頭、映画とテレビの垂直統合を妨げるため、連邦通信委員会(FCC)は三大ネットワークが自社向けに制作された番組を所有することを禁止した。1991年に緩和されたこの規制は、製作会社の新設を大きく促進した。だが、映画スタジオの役割もまた変化を遂げた。製作コストの急増によるリスクを減少させるため、独立系の製作会社との提携が進んだ。スタジオは外から持ち込まれた企画に投資を行い、仲介あるいは物理的な支援を提供する特殊銀行と化した。時代は大量生産の時代から「パッケージ」の時代に変わった。個々の映画は、多くの企業と厳選されたアーチスト(脚本家、監督、それに俳優)が関わる事業計画となった。ハリウッドの制作方式は「産業クラスター」方式(2)の強化版となった。そこではコストの問題に直面した際、二つのスタジオが一本の映画に共同で出資することさえ行われる。

 1920年代終盤から50年代初頭にかけての映画スタジオの黄金時代には、ハリウッドの制作方式はフォード方式に準じていた。それは規模の経済、規格化された反復作業、互換性のある部品、熟練を要さない労働力といったような、フォードの工場の組み立てラインに完璧に具現されていたような大量生産の大原則だ。1948年のパラマウント判決がこうした垂直統合体制に終止符を打った。この時期にスタジオは「フォード式」の組織から産業クラスターの形態へ移行したと見るエコノミストもいる(3)。

 産業クラスターとの機能上の類比には限界がある。映画産業が自動車産業と厳密には比較できないのとまったく同様に、黄金時代のスタジオが完全にフォード式の原則に則って組織されていたとは言えない。長編映画を規格化(ジャンル、筋立て、スター)しようとしても、個々の映画がそれぞれ独特でなければならない事実はいかんともしがたい。しかも、ある作品が失敗するリスクは、映画産業では他のニッチ産業よりも常に高い。

 1980年代終盤になると、映画産業は国際化を迫られるようになる。ハリウッドは産業クラスター方式から遠ざかり、地理的分散化のモデルを採用した。自由主義グローバリゼーションの時代に支配的となっていくモデルである。スタジオの凋落がこの傾向をはっきりと確立した。テレビが大衆化して、こちらが娯楽部門を独占するようになったため、現在では映画の封切りは特別な出来事となった。つまるところ、撮影とプロモーションに投じられる資金は、スタジオがたった1本の映画の失敗によってつぶれるほどの水準に達しているのだ。今日では10本の映画のうち商業的な成功を得られるのはたった1本にすぎない。リスクというものが映画産業を規定する大きな要素となっている。

 1990年代の終盤には、それまでの「柔軟な専門化」方式でもどうも苦しくなってきた。長編映画のコストが上昇したあまり、もはやアメリカ国内の観客動員だけでは全体的な収益の確保が困難になった。それまで単なるおまけのように見られていた国外への輸出が、財政的にバランスを取るためには決定的に重要となった。

 確かに、映画産業には従来から大きな国際性があった。初期のかなり素朴なフィルムでさえ、同時に数多くの国々へと輸出されていた。1914年まで、アメリカは特にフランスから、自国で製作する以上の映画を輸入していた。だが、旧大陸での映画製作を中断させた二度の世界大戦によって、ハリウッドはヨーロッパ市場を支配する基盤を固めることになる。

最低レベルに合わせた平準化へ

 テレビとの差別化を図る必要性、特にコストの急増という制約の下で、アメリカの映画産業は制作体制のグローバル化を余儀なくされた。コストの膨張に対して、事業地の移転にまさる答えがあるだろうか。技術変革が交通と電気通信の価格を低減させる流れの中で、ハリウッドはグローバリゼーションという列車に飛び乗り、ランナウェイ・プロダクション(海外制作)の方式を編みだした。

 最大の受益国となったのはカナダである。カナダには大スタジオにとって以下の利点が備わっている。それは、地理的に近いこと、町がアメリカと似ていること、両国の組合の間に関係があること、そしてとりわけ、カナダドルが弱いこと、カナダ政府が減税措置をとったことだ。こうした現象はなにも北米だけで見られたわけではない。フォックスは『タイタニック』の撮影にあたって、投資家にとって極めて好都合な法律を有するメキシコに巨大な撮影所を建設している。オーストラリアではアメリカの映画産業を誘致するために、各州政府が撮影所やポストプロダクション施設の建設に補助金を交付している。オーストラリアの製作会社がこれでは不平等競争だと文句を言うほどの好条件だ。地元の製作会社がこれまで借りてきた施設は高嶺の花と化し、ハリウッドがスタッフを現地に呼び寄せるせいで、地元の技術者は仕事にあぶれている。ヨーロッパでも、旧共産圏の国々への事業移転というお馴染みのストーリーが、映画製作にも関わってくるようになった。インフラが完備され、技術面でも高く認められているチェコは、ハリウッドの製作会社をも引きつけている。労賃が極めて安いルーマニアは、ハイレベルの企画を呼びこんでおり、南北戦争を題材とした映画『コールドマウンテン』(アンソニー・ミンゲラ監督、2003年)のロケ地にもなった。

 ハリウッドの国際化は、これまで常に見られたとはいえ、今や労働力の二極分解という様相を帯びるようになった。世に認められたアーチスト(俳優、脚本家、監督、撮影監督)は従来通りカリフォルニアに集まり続ける。それに対し、一段下の作品に携わるアーチストや技術者たちにとっては、カリフォルニアで仕事を見つけるのはますます難しくなっている。付加価値が高く、環境を汚染しない映画産業の展開は、ハリウッドの製作会社を受け入れる国々にとっては朗報だ。だが、雇用という観点から見れば、こうした変化はアメリカにとって高いものにつくだろう。

 国際市場に対する新たな依存状態は、映画の中身にも影響を及ぼしているように見える。大作の製作費は5000万ユーロを超えており、これにプロモーションの費用を加えればさらに倍増する。こうした出費を国内市場だけで回収できるような映画など滅多になく、収益の半分は今や国外に頼っている。映画スタジオは国際的に商品化しやすい企画にしか投資しなくなり、アクションや大がかりなスペクタクル、ステレオタイプな恋愛物が好まれるようになる。中身がこみ入っていたり、文芸的な野心が満々だったりするシナリオは、撮影にこぎつけるのが困難だ。ハリウッドは最大公約数の原則に従って機能しているという批判が、今日ほど妥当と思われることはない。だが、映画の大部分が輸出を念頭に企画されているにせよ、最低レベルに合わせた平準化という現象は、国内市場にも同様に影響を及ぼし、独立系の製作会社を阻害しているのだ。「ハリウッド」が人々を愚かにしていると非難しても始まらない。TF1(ブイグ)やメディアセット(ベルルスコーニ)、BスカイB(マードック)が作り出す番組のしょうもなさを見れば分かるように、問題の原因は自由主義グローバリゼーションにある。

 ハリウッドは氷山の一角であり、世界の視聴覚メディアにのしかかる画一化傾向の最も突出した姿にすぎない。スティーヴン・スピルバーグ監督の『宇宙戦争』のような作品でさえも製作会社の期待に応えられないほど、映画の魔法は解けてしまったのだろうか。大スタジオはもはや不安を覆い隠せなくなっている。

(1) 同業他社間で規模の拡大を目的として行う「水平統合」に対し、「垂直統合」は原料メーカーと完成品メーカー、映画の製作会社と配給会社のように、同じ産業部門で異なる生産・流通段階にある企業を同一グループ化する統合をいう。[訳註]

(2) 産業クラスターの概念に関しては、マイケル・J・ピオリ、チャールズ・F・セーブル『第二の産業分水嶺』(山之内靖・永易浩一・石田あつみ訳、 筑摩書房、1993年)を参照のこと。著者たちはイタリアのエミリア・ロマーニャ州での履物産業の発展を分析したイタリアの先行研究に依拠している。産業クラスターは、地理的に同一の圏内にある中小企業によって構成される。これらの企業は需要の変動に対応するため、熟練労働者を共同でプールして用い、相互に仕事を下請けに出す。こうした「柔軟な専門化」は、大量生産並みの単位コストでの少量生産を可能にする。産業クラスターに関して頻繁に用いられる用語である柔軟な専門化の最も有名な例として、カリフォルニア州シリコンバレーが挙げられる。

(3) Cf. Michael Stopper and Susan Christopherson, << Flexible specialization and regional industrial agglomerations : the case of the US motion picture industry >>, Annals of AAG, No.77, Los Angeles, 1987.

(2005年8月号)

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 自らの戦争犯罪に直面する日本

自らの戦争犯罪に直面する日本

林博史

関東学院大学教授、

著書『裁かれた戦争犯罪』岩波書店、1998年、

『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005年

 20万以上の死者と無数の強かん被害者を出した有名な「南京虐殺」は、ナチスドイツおよびファシストのイタリアと同盟を結んだ日本が、そのアジア膨張戦争の際に(1)犯した一連の残虐行為の始まりとなった。1937年7月7日に中国に対して開始された戦争は、なかでも多くの死者を出すものであった。占領者は特に華北で共産党の戦闘員を撲滅するために広大な地域を無人化した。重慶など中国都市に対する無差別爆撃が数年にわたって実施された。数多くの住民が虐殺され、あるいは餓死し、中国全体の犠牲者は1000万人以上にのぼった。

 休暇あるいはローテーションのなかった日本軍は、日本や朝鮮から大量の女性を「慰安婦」、すなわち兵士のための性奴隷として連行した。中国の女性も同様の運命をたどった。こうした制度の導入にもかかわらず兵士による現地女性への性犯罪は減らなかった。

 日本軍は必要な機密費を調達するためアヘンの生産販売を大規模におこない、中国の住民に荒廃を引き起こした。きわめて非人道的な犯罪をおこなったのは731部隊である。中国東北に配備された同部隊はBC兵器の開発をおこない、ジュネーヴ議定書(2)などの国際人道法に反して実戦でも使用させた。また731部隊は住民や捕虜に対して、生体解剖をはじめとする悪名高いエセ科学実験の罪を犯した。

 日本は中国に100万人の軍を送りこんだが中国政府は降伏しなかった。戦争は長期化し、アメリカとの対立が強まった。日本は自力で戦争を継続するために、東アジア・東南アジアに大帝国を建設することを決定した。物資、特に石油を確保することが特に重要な問題であった。1941年12月日本はアジア太平洋戦争を開始し、第二次世界大戦は文字通りの「世界」大戦になった。

 シンガポールを占領した日本軍は数万人の中国系住民を虐殺した。日本軍は抗日活動をする可能性のある者たちを事前に殺害したのである。東南アジア各地において、矛先に挙げられたのは活動家だけではなかった。「抗日分子」と疑われた者は殺害された。戦争末期には、連合軍と内通しているとされた住民がフィリピンやビルマなどアジア各地で大量に虐殺された。

 初期の軍事的勝利は大量の捕虜を生みだした。欧米人捕虜は、タイとビルマを結ぶ全長415キロの泰緬鉄道などで強制労働を強いられ、15万人の捕虜のうち4万2000人あまりが死亡した。生き残った者も飢えと病気のうちにあった。日本の外務省はジュネーヴ条約(3)を準用すると連合国に約したが、それを遵守する意志はまったくなかった。しかも、白人捕虜を働かせることにはイデオロギー的な側面があった。日本の威信を植民地民衆に見せつけようとしたのである。

 東京は朝鮮などの植民地民衆に、天皇への崇拝や日本語強制をおこない日本への同化を強制した。兵力不足を補うために徴兵制によって20数万人を動員する一方、100万人以上の労働力を日本とその周辺地域に強制連行し鉱山や工場、建設現場で働かせた。多くの朝鮮女性が「慰安婦」としてアジア各地におくられた。植民地支配による収奪の結果、日本に渡航し、戦後も日本に残った朝鮮人は、その子どもや孫も含めて、日本国籍を取得しない限り公民権がない。60年を経た今日なお差別され続けており、公務員になることもほとんどできない。

 日本はアジア民衆を蔑視していたため、国際条約に反してかれらを残虐行為の対象とした。また欧米秩序への反発は自由や民主主義、人権、国際法などの価値を否定することとなった。捕虜虐待は大衆に叩き込まれていた意識の反映でもあった。捕虜になることは恥ずべきことであり、天皇のために命を捧げることは最高の名誉である、といった意識である。同様に、軍は兵士が人間的な感情を押し殺して殺人マシーンになるように訓練した。

 軍の内部では上級者による殴打、ビンタが日常的におこなわれていた。非合理な暴力にも耐えなければならなかった。新兵は、一種の儀式に座すことになった。そこでは現地人が銃剣で刺し殺される。この試練に耐えられなかった者は一人前の兵士とは見なされない。こうした暴力によって日本軍兵士は非人間化され、占領地民衆や捕虜に対してより一層残虐になっていった。

 日本軍は物資を現地で調達することにしていたため、その行軍は略奪を伴った。上層部が補給体制を組織しなかったため、飢えた兵士は抵抗する農民を片端から殺し、女性を日常的に強かんした。略奪する村もないジャングルや無人島では多くの将兵が餓死した。ガダルカナル(4)やビルマなどはそうした例である。将兵の戦死者230万人のうち、半数(あるいはそれ以上)は栄養失調による死者であるとの研究も最近出されている。日本軍将兵の生命さえもきわめて軽視されていた。他国民の生命がさらに軽視されたことは言うまでもない。

 日本軍がおこなった侵略戦争による死者は、中国で1000万人以上(2000万人という説もある)、フィリピンで110万人など合わせて2000万人にのぼる。日本側の死者は310万人である。

 アジア民衆への差別意識は第二次世界大戦よりずっと以前から培われていたが、戦争によってさらに深く浸透した。東南アジアの住民は「土人」と呼んで最も下に見ていた。それゆえ戦争中の暴力行為は、すでに朝鮮、台湾でおこなわれた植民化の過程の延長としてとらえるべきである。こうした非白人に対する差別と暴力とのつながりは、他の先進諸国にもしばしば見られるものである。

 ただ日本が1930年代と1940年代に、人権や自由の原理自体を欧米起源の概念であると見なして否定したことが、そうした残虐行為をさらに悪化させたといえるだろう。天皇イデオロギーの急進化が進むと、天皇に対立するものは反逆者として慈悲なき懲罰の対象となった。日本軍内部での兵士の非人間的扱いも頂点に達していた。当時の日本が連合国以上に多くのひどい犯罪をおこなった理由はそうしたところにあるだろう。

 こうした残虐さは、連合軍の側のすさまじい報復を招いた。その筆頭が広島と長崎への史上初の原爆投下(死者20万人余)であり、一夜にして10万人の市民が殺された東京大空襲である。また太平洋諸島で少なくない日本兵がアメリカ兵によってその場で処刑されたことも近年知られるようになってきた。日本による残虐行為は一定の意図的なものはあった(同様のことを被占領国の大部分でおこなった)が、一元的な命令系統によっておこなわれていたかどうかは疑問である。その点はナチスドイツとは違っている。そのことは、多くの日本人が、こうした残虐行為を自らの責任と受け止めずに、戦争中のやむをえない出来事ととらえていることにつながっているように思える。

 戦後、占領国となったアメリカは、日本を忠実な同盟国にするために軍は切り捨てたが、天皇を含めた多くの指導者や官僚を温存した。冷戦状況のなかで、日本はアメリカの庇護の下に自らの戦争責任と向き合うことなく、戦後復興を進めることができた。日本によって最もひどい被害を受けた中国とは1972年まで敵対関係にあった(5)。

 日本人が半世紀前に自らの名の下にいかに大きな被害をアジア諸国に与えたのかを自覚し始めるようになるのは、冷戦が終わった1990年代になってからだった。生き残った被害者、特にアジア各国の「慰安婦」が声を上げることができるようになり、戦争犯罪研究もようやく進むようになった。こうした犯罪のいくつかが少しずつ人々に知られるようになり始めた。

 この数年、「歴史修正主義者」がかまびすしくなったのは、こうした変化に対抗しようとしてのことである。争点は歴史だけではない。戦争放棄を約した憲法を変える条件を作り出そうとしているのである。これらのイデオローグは日本がおこなった戦争と日本軍の名誉を回復すべく、南京虐殺はなかった、他所で日本軍が犯したとされる残虐行為は作り話にすぎないと主張する。それに、テレビが日本軍の残虐行為を扱うことはほとんどないし、新聞雑誌でも歴史修正主義派が優位にある。さらに悪いことに、かれらは歴史修正主義的な新しい中学歴史教科書の執筆を鼓舞し、中国や韓国世論の激しい反発を呼び起こしている。

 日本が1930年代と1940年代の戦争犯罪の事実を認め、その責任を取り、犠牲者が受けた被害に対して可能な限り償いを実行することは、いまだに課題として残されている。

(1) 日本はこれに先立つ戦争により欧米諸国の支持の下に朝鮮と台湾を植民地とし、さらに中国東北部、西太平洋諸島に利権を獲得した。次いで1931年に故意に引き起こした事件により、満州を占領した。そして翌年、日本保護下の新たな「かいらい国」たる満州国を作り、そのトップに満州王朝の最後の末裔たる溥儀を据えた。

(2) 1925年に採択された同議定書は、窒息性ガス、毒ガス、またこれらに類するガスの使用を禁止するものであった。1993年1月13日に、使用のみならず製造も禁止し、拡散防止のための仕組みをも含めた化学兵器禁止条約がようやく調印された。

(3) 日本は1929年のジュネーヴ条約に調印したが、批准はしなかった。

(4) 南太平洋ソロモン諸島にある面積6500平方キロメートルの同島は、1942年8月から1943年2月にかけ、日本とアメリカの対決の大きな焦点となり、アメリカが真珠湾以後初の勝利を収めた。

(5) 1972年9月29日、中国と日本は外交関係を回復する。

*ル・モンド・ディプロマティーク発行の隔月雑誌『マニエール・ド・ヴォワール』82号「隠蔽された歴史のページ」特集(2005年8-9月)掲載論文。日本語原稿をヴィアート・クロエが仏訳、日本語版掲載にあたり著者に校正いただいた。

(2005年8月号)

第七段落「戦後の多くの在日朝鮮人はこのときに連行された人々である。かれらは」を著者の指示により「植民地支配による収奪の結果、日本に渡航し、戦後も日本に残った朝鮮人は、」に訂正(2005年8月31日)

All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Hayashi Hirofumi + Saito Kagumi

 インターネットは誰がコントロールすべきか

インターネットは誰がコントロールすべきか

イグナシオ・ラモネ(Ignacio Ramonet)

ル・モンド・ディプロマティーク編集総長

訳・北浦春香

原文

 2003年12月にジュネーヴで第1回世界情報社会サミットが開かれたのに続いて(1)、今年は11月16日から18日にかけてチュニジアで、国連の要請に基づき国際電気通信連合(ITU)が運営する第二回目のサミットが開催される。今回のサミットでの最大の関心事は、もっと民主的な形のインターネットのコントロールをどのように確立するかいう問題だ。

 インターネットは冷戦時代に米国で発明された。当時、国防総省は原爆攻撃に耐え、攻撃に際して生き残った政治・軍事の責任者たちが反撃に向けて互いに連絡を取り合うことができるような通信システムを作り上げようとしていた。ロサンジェルスでまだ学生だったときに、公的助成を受けた研究グループに属していたヴィントン・サーフは、全く新しい革新的な方式による通信手段を夢みていた。しかし、当時はまだ、インターネットはごく一部の研究者、軍事関係者、専門家だけのものだった。

 その後、1989年になると、ジュネーヴにあるヨーロッパ素粒子物理学研究所(CERN)に所属していた二人の物理学者、ティム・バーナーズ・リーとロベール・カイヨーがハイパーテキストシステムを実用化し、WWW(ワールド・ワイド・ウェッブ)を発明した。WWWは情報の伝達を容易にし、一般の人々へのインターネットの普及を後押しした。こうして、インターネットが短期間に爆発的に広まったのである。

 1998年以降現在に至るまで、世界のネット網の運営にあたっているICANNは、ロサンジェルスに拠点を置く民間非営利団体で、カリフォルニア州法を準拠法とし、米国商務省の監督を受けている。ICANNはネットの総合管制塔である。技術的には、「ルートサーバー」と呼ばれる13台の桁外れの処理能力を持つコンピューターを備えており、それらは米国(カリフォルニアに4台、ワシントン近郊に6台)とヨーロッパ(ストックホルムとロンドン)、日本(東京)に置かれている。

 インターネットの閲覧を容易にするドメインネームシステム(DNS)の調整にあたるのがICANNの主な仕事である。ネットに接続されたパソコンは、インターネットプロトコルアドレス、略して「IPアドレス」と呼ばれる個別のアドレスを割り当てられている。IPアドレスそのものは暗記しにくい数字の羅列であるが、こうした数字の代わりにもっと親しみやすい文字列や言葉(「ドメインネーム」)を使えるようにするのがDNSである。例えば、一続きの数字の代わりに、www.monde-diplomatique.fr と打ち込めばよい。DNSが、ドメインネームを該当するIPアドレスの数字の列に置き換え、こうしてパソコンが目当てのサイトにつながる。さらに、電子メールの円滑な送受信を可能にするのもDNSである。これらはすべて、地球規模で、超高速で行われているのだ。

 ICANN自身の言によれば、「ICANNは、インターネット運用上の安定性を維持し、競争を促進し、インターネット社会全体の代表として、自らの任務に適合した方針をコンセンサスによって打ち出すことを任務としている(2)」

 しかし近年、もはやコンセンサスは得られていない。米国がネットを手中にしていることに対して、抗議の声があがっている。チュニジアでのサミットに先立って、今年9月にジュネーヴで米国と欧州連合(EU)の間で事前交渉が行われた際には、EU諸国は一致して、2006年の9月にICANNと米国商務省との契約が期限を迎えるにあたり、インターネット統治の改革を求めた。米国は一切の変更を拒否し、話し合いはまとまらなかった。

 ブラジル、中国、インド、イランといった国々も、様々な理由から、ヨーロッパ諸国と同様の立場をとっている。中には、自国独自のネット運営組織を創設すると脅しをかける国もあり、そのような事態となれば、インターネットはばらばらとなってどうにもならなくなるだろう。

 インターネットをめぐる争いは、地政学的な様相を帯びている。グローバリゼーションが進み、通信が基本的な戦略資本となり、無形の財の取引が急速に発展している世界では、通信網が大きな役割を持つ。インターネットのコントロールを掌握した大国は、戦略上決定的に優位な地位を得る。それは、19世紀に英国が、世界規模で航路をコントロール下においたことで世界を支配したのと似ている。

 インターネットにおける覇権は、理論上は、どの国のどのウェッブサイトへのアクセスでも制限できる力を米国に与えている。また、世界中の電子メールの送受信をどれでもストップさせることも可能だ。現在のところ、米国はこうした行為を行っていない。しかし、それを意図すれば実行可能なのである。単にこうした可能性がある、というだけでも、多くの国が深い懸念を抱くには十分だ(3)。

 ICANNを米国のコントロールから切り離すよう要求するときが来た。今やICANNは国連の下の独立した組織とすべきなのだ。

(1) イグナシオ・ラモネ「インターネット新秩序」(ル・モンド・ディプロマティーク2004年1月号)参照。

(2) http://www.icann.org および www.icannwatch.orgを参照。

(3) Cf. The Guardian, London, 11 October 2005.

(2005年11月号)

All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Kitaura Haruka + Hiroi Junnichi + Saito Kagumi

 インド社会政策の実施に立ちはだかる壁

インド社会政策の実施に立ちはだかる壁

ジョツナ・サクセナ(Jyotsna Saksena)

フランス国立東洋言語文明研究所教員、パリ

訳・ジャヤラット好子

 インドのシン首相は、国営企業バーラト重電機公社(BHEL)の株式10%の売却を最終的に取り止めた。2004年5月に発足した国民会議派主導の少数与党政権に閣外協力する左派諸党から(1)、激しい突き上げに遭ったからだ。また同様に、業績絶好調の公営企業群、いわゆるナワラトナの資本公開を中止すると左翼戦線に伝えた。

 この決定の意味は、統一進歩連合(UPA)による連立政権と左翼戦線が交わした全国共通最小限綱領(NCMP)への重大な違反となる計画が、これによって放棄されたということだ。2005年6月の民営化計画の発表後、綱領に署名した政党間の調整委員会から離脱していた左派諸党は、この10月になって委員会に復帰した。

 この綱領には、6つの大原則が示されている。あらゆる原理主義と闘い、政教分離の確立によって社会的な調和を推進すること。雇用促進のために少なくとも年間7%から8%の経済成長を確保すること。農民と労働者、なかでもインフォーマル部門における福祉を改善すること。女性の権利を強固にすること。「下位カースト」や「その他の後進階級」、部族民および少数派宗教徒に対し、教育と雇用における機会の平等を保障すること。国内のあらゆる生産力の活性化と良質の統治を可能にすること。これらの原則のそれぞれに関し、取るべき施策が詳述されている。

 現政権は、原油価格の上昇や津波被害があったなかで6.9%の成長を実現したと胸を張る。NCMPの実施のために2500億ルピー(約6500億円)の追加予算、すなわち農村開発予算の47%積み増し(2004会計年度当初予算比)、福祉事業予算の49%積み増しを計上したと強調する。シン首相は政権2年目を迎えるにあたって、320億ユーロ規模の「農村開発大計画」を発表した。首相に批判的な人々は、さまざまなニーズに加え、NCMPが掲げる目標に照らしてみても、まだ予算が足りないと嘆く。

 NCMP実施の難しさを何よりも示すのが、農村部の各世帯に年間最低100日間の労働日数を保証するという約束だ。雇用保障法(EGA)と呼ばれる意欲的なこの施策は、政権発足から100日以内に実施されるはずのところ、期限を1年過ぎた2005年8月25日にようやく法案の可決を見た。しかし、法案成立までの経緯から窺えるのは、むしろ議会多数派内部の緊張関係である。当初の法案に規定されていた内容は、NCMP実施のために設置された国家諮問評議会の勧告とはかけ離れていたからだ。つまり、対象が貧困ライン以下の世帯に限定され、最低賃金も定められていなかった。地域単位の就労プログラムを政府の意向しだいで取り止めることができ、最初に587県のうち150県で開始したあと、後日に対象地域を拡大する義務もないと記されていた。

 しかし、この及び腰の法案でさえ、2004年12月に国会に提出された際に、国民議会(下院)の常任委員会による審議から先に進まなかった。2005年5月に大規模な民衆デモが起きてようやく(2)、農村開発委員会が政府法案の積極的な修正を勧告したのである。

 新法は、農村部の各世帯に絶対的な最低所得を保障し、一日60ルピー(約155円)の法定最低賃金を定め(3)、このプログラムを5年間でインド全土の農村に拡大することを政府に義務付けている。原則的に、受益者の30%は女性でなければならない。また、プログラムの運営は地元の選出団体に委ねられる。その反面、所得保障を個人単位に広げるべきだという委員会勧告は採り入れられず、一世帯につき一人に対する保障しか規定されていない。

数字の辻褄合わせ

 さらに、今のところ財源の確保にはまったく目処が付いていない。専門家の見積もりによれば、EGAには毎年46億5000万~83億6000万ユーロが必要であるという。ところが、2004会計年度において、EGAの前身たる「労働の対価としての食糧援助(フード・フォア・ワーク)」プログラムの予算が3億3440万ユーロだったのに対し、2005年度でも10億ユーロに増えたにすぎない(4)。2005年度における農村雇用促進のための予算全体をとっても見込み額は16億7000万ユーロ(前年度は10億ユーロ)にすぎず、EGAだけの必要金額にもほど遠い。

 財源確保の問題は、優先度が高いはずの他の分野にも及んでいる。たとえば、保健分野の今年度予算は18億9000万ユーロ(昨年度は15億6000万ユーロ)であるが、NCMPに従うなら、これを現行議会の任期末までに国内総生産(GDP)の2~3%に引き上げなければならない。2005年度の予算編成の基礎となったGDPの予測額と掛け合わせれば、金額にして年間130億~195億ユーロに相当する。また、初等教育分野の予算は14億4000万ユーロあまりにすぎず、学校給食の予算6億1300万ユーロを加算しても、議会の任期末までにGDPの6%に持っていく目標とはやはりかけ離れている。

 いまだ不充分なものでしかない上記の予算金額でさえ、数字の辻褄合わせがなければ実現できなかった。それもそのはずなのだ。経済面と税制面で自由主義路線に大きく舵を切っている現行政府は、減税と財政赤字削減を同時に進めようとしている。企業への課税率を35%から30%に引き下げ、ほとんどの事業者にサービス税を免除、さらに所得税も下げるという予算が組まれている。

 インド国内で贅沢品とみなされる商品(エアコン、タイヤなど)に対する付加価値税(VAT)も、24%から16%に減税された。多数の製品にかかる関税も同様で、最大税率が20%から15%、一部製品については15%から10%、さらには5%に引き下げられた(5)。諸税がGDPに占める割合はたかだか9.8%にすぎなかったにもかかわらず、である。その一方で、インド人民党(BJP)連立政権が退場となる直前に可決され、統一進歩連合によって2004年7月に施行された「財政責任と予算管理に関する法律」によれば、2008会計年度までに財政赤字を削減し、GDPの3%以内に抑えなければならない。企業や高所得世帯に気前良く減税を施しながら、徹底して赤字削減を進めるという状況下で、どうやってNCMPの財源を一部なりと捻出できるというのだろうか。

 数字の辻褄合わせとは要するに、いくつものテクニックを使って不足を隠蔽するということだ。昔からありがちな手法として、政府は会計年度末に歳出を調整できるだろうと当て込んで、歳入予想額について楽観的すぎる数字を挙げる。このテクニックがNCMPの計画に使われていないという保証はない。

 政府はまた、予算以外の手段も積極活用ということで、支出の一部を公法人に移管した。たとえば、インド食糧公社(FCI)は「労働の対価としての食糧援助」プログラムに対し、金額にして9億3017万ユーロに相当する5000万トンの食糧を供給する義務を負う(このおかげで財務相はプログラムの予算額が実質的には19億3000万ユーロ規模に達すると主張できた)。ところが、この移管によってFCI自体の赤字は悪化してしまい、今のところ補助金で補填されている。将来、補助金は削減すべしという自由主義の教義のもと、FCIがきれいさっぱり解体されることにならないとも限らない。経済学者のプラバト・パトナイクは次のように指摘する。「公法人を通じて(・・・)財政赤字が拡大したとしても、それと並行して公法人の保護策が取られれば問題ではない。しかし、そうした策が取られるとは言い切れない(6)」

 さらに、赤字の一部を州政府に移管するという手段もある。これまで州政府の計画の資金は中央政府の国債によって調達していたが、今後は各州が市場から直接借り入れを行う。投資の規模は各州の資金調達能力しだいとなり、大部分が州の所轄となっている農業部門への打撃は大きい。中央政府の予算における農業関連予算の規模を見れば、影響の大きさのほどがわかるだろう。大幅な増額(昨年度の8億5660万ユーロに対して今年度は11億5000万ユーロ)だとはいえ、ほとんど取るに足りない数値でしかない。

異論はあれど

 こうした計算上のトリックは、政府が自由主義的な改革とNCMPの約束事項の(少なくとも部分的な)実施を同時に進め、「公平感のある経済成長」を推進するのに成功したという錯覚を与えるかもしれない。しかし、それで人目をくらますことはできない。

 政府と反自由主義的な批判勢力との間に、見解の不一致が広がっている。それは、最近ブレーキがかけられた公共事業民営化の問題だけでなく、外国からの直接投資の問題にも関わっている。財務相が国会に提出した経済報告では、この分野の奨励策の強化が勧告されていた。左派勢力はこれに一義的な反対は唱えていないが、生産力向上、雇用創出、そして技術進歩への寄与といった点に配慮した投資規制を求めている。外国投資の上限が、保険業(26%だったのが49%へ)や銀行業(法案は準備中)のような部門で引き上げられている現状は、とてもそうは言えない。労働市場の柔軟化を推進するという法案は、これまでも最低限の保証さえなかっただけに、さらに激しく批判されている。

 昨年の成長率が工業分野では8%以上だったのに対して、農業分野では1.1%でしかない。この農業分野に関して財務相の報告書は、市場の規制緩和を強調し、補助金で成り立っている農業から、世界貿易機関(WTO)の方向性に適った「国際競争力のある農業」への変革に着手すべきだと勧告している。

 こうした政府方針に対する異論に加え、象徴的な意味を持つ別の施策が進んでいないという不満もある。それらの施策の実施には財源面での手当ても不要で、政治的な意志さえあれば足りる。国会および州議会で女性議員の比率を最低33%以上にすること、下位のカーストを雇用面で優遇する「前向きの差別」政策を民間部門に拡大すること、森林地域に暮らす部族の権利を法制化すること、などである。これに比べて、医薬品に関する特許法が変更された際は、2005年3月に法案が可決される以前に2004年12月に政令によって決定されるという早業だった。

 シン首相は内閣の政策に対して諸派の合意を得ようとしているが、とくに労働市場の規制緩和をはじめ、全面的な合意を得るには至っていない。首相に言わせれば、こうした事情が改革を遅らせ、経済成長と開発プロジェクトの進捗を妨げている(7)。インド左派共産党のプラカシュ・カラート書記長の意見は逆で、現在の線でいけば、政府が検討中の年金基金民営化や銀行規制法の変更といった法案の採決の際、左翼戦線としては反対に回らざるを得ないという(8)。

 しかしながら、警鐘を鳴らしている人々は、政権の打倒を望んでいるわけではない。第一に、反自由主義的な確固たる代替策を示せるような第三の勢力がない現状で、政権の打倒に動いてもインド人民党を利するだけになってしまう。第二に、統一進歩連合は、基本的自由権や国家レベルの政教分離の面では総じて成果を上げている。テロ防止法は廃止され、ヒンドゥー民族主義イデオロギーに強く染まった教科書は回収された。第三に、パキスタンと中国に対する政府の対外政策は賛同を呼んでいる。ただ最近では、9月24日に国際原子力機関(IAEA)でイラン非難決議に賛成票を投じたことで国内に重大な緊張が生じ、左翼戦線はこれを米国の圧力下で独立外交を放棄したものだと述べた。そして第四の最大の要因は、たとえ部分的で不完全であるとはいえ、NCMPの実施そのものが、前政権の政策に比べれば一つの前進だということなのである。

(1) 543議席のうち、国民会議派の率いる政党連合は217議席を獲得した。インド人民党の率いる政党連合は185議席、左翼戦線は59議席である。

(2) 150以上の市民団体、左派政党および組合が「就労権のための行脚」を全国的に組織した。

(3) 最低賃金は州によって異なるが、一日60ルピー(約155円)未満であってはならない。

(4) 予算に関する数字はすべて、2月28日の国民議会でのチタムバラム財務相の答弁による(http://www.finmin.nic.in)。

(5) クリストフ・ジャフルロ「グローバル化に慎重なインド」(ル・モンド・ディプロマティーク2004年1月号)参照。

(6) Frontline, Vol.22, No.6, Chennai, 12-25 March 2005.

(7) ザ・ヒンドゥー紙(ニューデリー)2005年8月26日付に再掲されたマッキンゼー・クォータリー誌のインタビューより。

(8) Frontline, Vol. 22, No.12, Chennai, 4-17 June 2005.

(2005年11月号)

All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Jayalath Yoshiko + Okabayashi Yuko + Saito Kagumi

 カトリーナ被災地に群らがる禿鷹ども

カトリーナ被災地に群らがる禿鷹ども

マイク・デイヴィス(Mike Davis)

近著 The Monster at Our Door. The Global Threat of Avian Flu,

The New Press, New York, 2005

訳・瀬尾じゅん、斎藤かぐみ

 9月24日から25日にハリケーン・リタが通過すると、アメリカ人はほっと胸をなでおろした。しかし、その1カ月前にカトリーナが引き起こした甚大な被害、そしてブッシュ大統領による災害対策のずさんさは、今なお彼らの心に重くのしかかっている。ホワイトハウスは「これまで以上に大きくすばらしい」ニューオーリンズを「再建」すると宣言したが、総額2000億ドルの復興計画でいちばん得をするのは、大統領御用達の企業だろう。イラク戦争からもたっぷりと配当金をもらい、災害便乗資本主義を得意分野とする企業である。彼らはこの機会に乗じて、ニューオーリンズの貧しい黒人を「浄化」し、低湿地に追いやって、この街にいわばジャズのディズニーランドを作り出そうとするに違いない。[フランス語版編集部]

原文 http://www.monde-diplomatique.fr/2005/10/DAVIS/12817

 ニューオーリンズを破壊したハリケーンは、8月23日にバハマから200キロの沖合いで発生した強い大気の乱れによって生まれた。この「熱帯性低気圧カトリーナ」は、4日間かけてメキシコ湾上を通過するあいだに、まさに怪物へと変貌した。異常に高温化した海水(平年の8月より摂氏3度も高かった)から大量のエネルギーを吸い込んでカテゴリー5、風速290キロの大型ハリケーンとなり、高さ10メートルの巨大な高潮を生み出した。

 カトリーナが吸い取った熱エネルギーはすさまじいもので、「その通過後に一部の海域で水温が30度から26度へ急激に下がった」ほどであった(1)。カリブ海のハリケーンがこれほどまでに勢力を増した例は過去にもまれだ、と気象学者たちは震え上がった。カトリーナのこれほどの強暴化という事実がハリケーンの規模に対する地球温暖化の影響を示すものなのかという問題は、研究者の間に大きな議論を呼んでいる。

 29日火曜日の朝、ミシシッピ川デルタ地帯にあるルイジアナ州プラクマインズ郡に上陸したとき、カトリーナはカテゴリー4(風速210-249キロ)に衰えていた。しかしそれは、カトリーナの通り道にあたってしまった原油輸入港の町、小さな集落、ケイジャン(旧仏領カナダ移民の子孫)の漁村に住む人々にとってわずかな慰めにしかならなかった。プラクマインズ郡、それにミシシッピとアラバマ両州の沿岸部一帯で、カトリーナの手のつけようのない猛威が低湿地に襲いかかった。そのあとには、ヒロシマに負けないぐらい荒廃した風景が残されていた。

 当初、ニューオーリンズの130万人の市民は被害を受けないだろうと思われていたが、ハリケーンの進路は右にそれ、その中心は、同市から東に55キロの地点に移動した。最も強暴な突風は免れたものの、海抜下にあり、北のポンチャートレイン湖、東のボーン湖という二つの大きな塩水地帯に囲まれたこのルイジアナ州の大都市は荒れ狂う水に飲み込まれた。

 二つの湖にハリケーンが引き起こした高波により、黒人の多い東部地区と、白人労働者の住む隣町セントバーナードを防御するはずだった堤防が決壊した。この堤防の高さが不十分で、富裕層の住む地区の堤防に比べて低いことは周知の事実だった。公式の避難勧告は出ておらず、あふれ出した水は、寝込みを襲われた数百人の住人にとって死の罠となった。正午近く、これよりも強固だった運河地区の17番ストリートの堤防も決壊した。

 観光地フレンチクォーターとガーデンディストリクト、それにオーデュボン公園のような高台に造られた富裕層の住む地区は浸水を免れた。しかし、そこ以外はどこもかしこも屋根の高さまで冠水し、15万軒近くが被害をうけ、あるいは倒壊した。そしてこの街は、住民の支援に駆けつけることも新たな堤防を建設することもできなかった大統領に対する皮肉を込めて「ジョージ湖」という渾名を戴くことになった。

 「暴風雨は差別をしない」と主張したジョージ・W・ブッシュも、後日に認めざるを得なかった。この災害のうちに、階級および人種間の不平等の刻印を押されていないものは一つもない。ハリケーンは、すべてのアメリカ市民を守るという国土安全保障省の約束の化けの皮を剥いだだけでなく、黒人やヒスパニック系住民が多くを占める大都市を連邦政府がかえりみず、彼らの生死に関わる社会基盤の整備を怠っていたことを白日の下に曝したのだ。

重ねられたシミュレーション

 連邦緊急事態管理庁(FEMA)の信じられない無能ぶりはなんだったのか。それは、国民の生死に関わる機関の幹部ポストを、政界上層にうまく取り入ったというだけでやる気もなく、政府の介入はいかんとイデオロギー的に決め付けるような人物に与えることが、いかにばかげているかを示すものだった。FEMAの官僚主義による驚くべき腰の重さを考えると、政府がデイヴィス・ベーコン法(2)に基づく現行の賃金規定を一時的に停止したり、ハリバートン、ショウ・グループ、ブラックウォーター・セキュリティといった、イラクはティグリス川のほとりでボロ儲けしたばかりの企業の禿鷹ビジネスマンたちに、ニューオーリンズ再建と「治安」の門戸を開放した際の素早さには舌を巻くしかない。

 ニューオーリンズの苦悶が、連邦政府の怠慢によるものだとしても、責任は知事と市長にもある。ネーギン市長(民主党)はアフリカ系アメリカ人の富裕な企業家で、ケーブルテレビ会社の役員を務め、2002年に白人票の87%を得て当選した(3)。市民の安全の最終責任は彼にあり、住民のおよそ4分の1は貧しさ、あるいは身体的な事情から自動車を持っていなかった。2004年9月にハリケーン・アイヴァンに襲われた際に事前対策の不足が問題にされていたにもかかわらず、車のない人や病院の入院患者たちを避難させるために必要な手段を講じなかった信じがたいほどの無能さ加減は、ネーギン個人の無能を反映しているだけではない。そこで暴露されたのは、おんぼろ団地や街はずれに住む貧しい市民の命運など知ったことかという、この町の白人エリート層にも黒人エリート層にも共通したエゴイズムだ。

 これは予告された災害だったのだろうか。事実、国土安全保障省のチャートフ長官がいけしゃあしゃあと断言したのとは裏腹に、アメリカのこれまでの歴史のなかで、これほど正確に予想された災害はかつてなかったのだ。カトリーナがものすごい速度で勢力を増したことに専門家たちが驚いたのが事実だとしても、大型ハリケーンが及ぼす被害については、彼らに疑問の余地はなかった。

 今回カトリーナにやられた東部地区のかなりの部分が、1965年9月にも、ハリケーン・ベッツィによる洪水に襲われている。そのときの忌まわしい経験以来、ニューオーリンズの町の脆弱さについては徹底的に調査されており、この調査結果は広く知られていた。1998年のハリケーン・ジョージは幸いにもそれほど被害はなかったが、その後、いっそう研究が進められた。ルイジアナ大学による精緻なコンピューターシミュレーションは、南西からカテゴリー4のハリケーンが上陸した場合、町は「実質的に全壊する」という結果をはじき出した(4)。ニューオーリンズの堤防や防壁は、最大でカテゴリー3のハリケーンを防御できるよう設計されていたが、2004年に陸軍工兵隊によって行われた新たなシミュレーションでは、そのレベルのハリケーンを防御することさえもおぼつかないことが判明した。

 ルイジアナ州の沿岸部の防波島と湿地帯は恒常的な浸食を受けており(年間60-100キロ四方が水没している)、そのせいで、ニューオーリンズが高潮に襲われるたびに、波の高さが高くなっている一方、町とその堤防の地盤沈下がゆっくりと進んでいた。たとえカテゴリー3のハリケーンでも、進行速度がかなり遅い場合は町のほぼ全体が洪水に襲われる可能性があった(5)。

 こうした予測の意味を政治家たちにもっとよくわからせる必要があったのなら、そのほかに、ハリケーンが直撃した場合に予想される被害を正確に算出した研究も発表されている。どのコンピューターシミュレーションでも恐ろしい数字がはじき出されていた。少なくとも都市部の160キロ四方が水没し、8万人から10万人の死者が出るというものだ。2001年、この調査結果を知ったFEMAは、ハリケーンによるニューオーリンズの洪水を、近い将来に合衆国本土で起こりうる三大災害の一つに数え上げた(他の二つはカリフォルニア大地震とマンハッタンのテロ攻撃である)。2004年、ハリケーンの活動が再び活発化しているという気象学者の発表を受けて、連邦政府は精緻なシミュレーション「ハリケーン・パム」を行った。またしても、数万人の被災者が出るとの結果がはじき出された。

 これに対するブッシュ政権の回答は、洪水対策を急かすルイジアナ州の要請をはねつけることだった。防御手段の役割を果たす沿岸湿地帯の大規模な再整備計画「コースト2050」という、10年にわたる研究調査と協議の成果は棚ざらしにされた。堤防の保守や建設のための予算は繰り返し削られ、ポンチャートレイン湖周囲の防波堤は未完成のまま放っておかれた。

FEMAの内情

 陸軍工兵隊もまた、ワシントンの新たな優先事項のあおりによる予算削減の犠牲者であった。つまり、高所得者層への大幅減税、イラク戦争への出費、そしてなんとも皮肉なことに「国土安全保障」費の増加といったことだ。政治的な下心があったのは言うまでもない。ニューオーリンズは黒人が過半数の街であり、ここの有権者はルイジアナ州の選挙でしばしば民主党を有利に導いてきた。あけすけに党派的な連邦政権がその政敵に対して、ニューオーリンズ周辺をカテゴリー5のハリケーンから守るために25億ドルもの贈り物をするはずがあるだろうか(6)。

 事実、共和党の元下院議員であった工兵隊長が2002年に洪水対策予算の減額に異議を唱えたとき、ブッシュは彼を退任に追い込んだ。

 とはいえ、不公平な見方はしないようにしよう。連邦政府はルイジアナ州に、かなりの額の注ぎ込んできたのだから。ただし、それは港湾企業や海事企業のため、また共和党の票田地域に便宜を図るための施設工事の費用であった(7)。

 予算面での蛮勇だけでは飽き足らず、ホワイトハウスはFEMAを骨抜きにするという無責任な手段に出た。この機関はウィット長官(当時は閣僚級の処遇)の時代には、クリントン政権の自慢の種の一つであった。1993年のミシシッピ川の氾濫や、1994年のロサンゼルス大地震の際、その効果的な救援活動には誰もが称讃を惜しまなかった。

 しかし、2001年に共和党員がFEMAの幹部ポストを手に入れると、彼らはまるで征服地を取り仕切るような姿勢で臨んだ。かつてブッシュ選挙陣営の首脳だったオルボー新長官は、主だった洪水・ハリケーン対策計画の多くを縮小した。2003年に退任すると、イラク関連の契約をゲットしようとする企業のためのコンサルタントに転職し、莫大な報酬を得た(そして、同じ路線をまっしぐらというわけで、先ごろルイジアナ州に舞い戻り、復興事業で甘い汁をたっぷり吸おうとたくらむ企業のために、事情通としての才能を全開させている)。

 2003年に国土安全保障省に統合され、省レベルから格下げになったFEMAは、組織がガタガタになって回らなくなった。2004年にはスタッフが、「災害予防に通じた幹部の代わりに政治家に縁故のある利権屋や、まともな経験も知識もない初心者が送り込まれてきたこと」を告発する文書を議会に送っている(8)。

 オルボー長官の後任となったブラウン長官が、まさにそのものだった。災害予防のことにはズブの素人の共和党の弁護士で、履歴書は適当にでっち上げていて、大統領のお誉めにあずかった一週間後に解任された。ブラウンの下で、それまで多岐にわたっていた職務を狭められ、予算も削られたFEMAは、ひたすらテロ対策に努め、アル・カイダに対するマジノ線(9)の構築に突っ走るようになった。

 マイアミにある全米ハリケーン・センターのメイフィールド所長は、2005年8月28日のビデオ会議でブッシュ大統領(テキサスにて休暇中)と国土安全保障省のスタッフに対し、カトリーナがニューオーリンズを壊滅させる途上にあると警告した。「準備は万端だ。この種の自然災害は何年も前から想定していたからね」と、ブラウンは余裕を見せた。数カ月前から、このFEMA長官は国土安全保障長官とともに、新たな全国緊急対策計画を自画自賛していた。大災害が起きた場合には、さまざまな政府機関が空前無比の連携をとるはずだった。

 だが、実際にニューオーリンズ一帯で浸水が始まると、電話口に責任者を呼び出すのは到底不可能であることがわかった。救助隊員と市の職員は有効な通信手段を失っていた。FEMAがあらかじめ現地で調達しておくはずだった配給用の食糧、飲料水、砂袋、石油、移動式トイレ、バス、船、ヘリコプターといった必需物資も足りなかった。連邦機関に広く動員をかけるためには「全国的事件」という法的な認定が必要だったが、その認定を行うのにチャートフ長官は浸水が始まってから24時間あまりも費やした。

貧困層の追放

 屋根の上や病院のベッドの上で力尽きたニューオーリンズの数百人にとって、恐竜並みに鈍重な頭脳しかもたない国土安全保障省が、災害規模の公式認定にぐずぐずと時間をかけてしまったことは致命的だった。チャートフは9月2日の時点でもなお、世界中のテレビに流れたスーパードームの無秩序と絶望の情景を「流言飛語」にすぎないと述べ、全米公共ラジオ(NPR)のリポーターを唖然とさせた。ブラウンはといえば、「避難命令を聞こうとしなかった」犠牲者のほうに非があるのだといきり立った。自動車がなかったとか、車椅子でバトンルージュに向かうのは無理があるとか、そうした事情はまるで関係ないと言わんばかりである。人口の少なくとも5分の1が自力で町を脱出できない状況にあることは、複数のシミュレーションの結果でも示されていた(10)。

 ラムズフェルド国防長官によれば、カトリーナの悲劇はイラクとは何の関係もない。とはいえ、ルイジアナ州兵の3分の1以上と重機のかなりがイラクに出払っていたことで、救助活動は初動の時点からつまずいた。救援の手が届いていれば、市庁舎にとっても有用だったはずだ。非常用発電機を動かすディーゼル燃料がないせいで、緊急司令本部は最初から使い物にならなかった。つながる電話が一つもなかったために、市長と側近は2日にわたって外界から遮断されていた。市が2002年以来のべ1800万ドルの連邦補助金を使って、こうした状況に職員を対処させる訓練を重ねていたことからしても、市政の運営体制が崩壊したのは驚きだ。

 2004年9月にレベル3のハリケーン・アイヴァンが来たときも(市への直撃は最後の瞬間に免れたが)、ネーギン市長は受け身の姿勢を厳しく批判された。このときも貧しい住民を避難させる手段は何も考えられていなかった。市当局はこうした批判を受けて、貧困地区向けに3万本のビデオを制作したが、配布はされていない。中身は「市が動くのを待つな。州が動くのを待つな。赤十字が動くのを待つな。さあ行け」というものだ。市がそのためのバスも電車も用意しない以上、貧しい住民は徒歩で避難するという想定である。スーパードーム内の衛生状態と治安が我慢の限界に達すると、数百人が徒歩で町を出て、郊外の白人地区グレトナに通じる橋を渡ろうとした。しかしパニックを起こしたグレトナの警察部隊は、人々の頭越しに射撃を始め、橋の手前に押し戻した。

 冠水のただなかに放置された住民の一部は、自分たちの市の信じがたい怠慢の背景に、ニューオーリンズの根深い社会的、人種的な亀裂を読み取った。地元の経済エリート、そして彼らと手を結んだ市の幹部が、貧困層を高い犯罪率の原因であるとして、市外に追い出したがっていたことは周知の事実である。ある地区では、昔から町の風景の一部になっていた公営団地が取り壊され、代わりに高級住宅とスーパーマーケットが建てられる。また別の地区では、子供が夜間外出禁止令を破ったという理由で、団地の住人が叩き出される。これらの行為の目的は、ニューオーリンズを巨大なテーマパークにして、貧困層を観光客の目に付かないよう、低湿地やトレーラー・パーク、刑務所などに押し込めることにあっただろう。

 こういうわけで、ニューオーリンズの白人度を高めて治安をよくしようと主張する一部の人々にとって、カトリーナは天の配剤だった。ルイジアナ州のある共和党指導者は、ワシントンのロビイストにこんなふうに語ったという。「やっと、ニューオーリンズの団地が片付いてくれたよ。我々ができなかったことを、神が代わりにやってくださったのさ(11)」。人影の消えた街路と瓦礫と化した居住区は、ネーギン市長にとっても願ったり叶ったりである。「我々の町から初めてドラッグと暴力が消えた。この状態を維持したいものだ」

 現在アメリカのあちこちで避難生活を送っている数万人の貧しい借家人に対して、地方行政や連邦政府が安い住宅を提供するために多大な努力を傾けないかぎり、ニューオーリンズはいわば民族浄化を見ることになりかねない。「低地第9区」のように海抜下にある貧困地区の一部を、富裕者地区を守るための貯水池に改造しようという話もすでに聞かれる。この点に関してウォール・ストリート・ジャーナル紙は、「そうなればニューオーリンズの貧困層の一部は自分の住んでいた地区に二度と戻れなくなってしまう」と指摘している(12)。

イラクの次はニューオーリンズ

 ネーギン市長は、すでに「土地囲い込み運動」推進派への配慮を見せている。住民の75%がアフリカ系アメリカ人だというのに、全16人の復興特別委員会の構成を白人8人、黒人8人にすると発表したのだ。1990年代初めに大統領選の予備選挙で勝利を収め、世を震撼とさせたネオナチのデヴィッド・デュークの地盤だった郊外の白人地区も、自分たちの利益を擁護する構えでいる。隣のミシシッピ州の共和党指導層は、このルイジアナ州の大都市を民主党の金城湯池にしておくつもりはない。陽気な気風とジャズ文化の源流となったニューオーリンズの昔ながらの黒人地区が、これらの渦巻く利害のなかを無事に切り抜けられるとは思いにくい。

 ブッシュ政権はといえば、ケインズ主義の色濃い財政政策と超保守的な社会工学の取り合わせで、事態を乗り切りたいと考えている。周知のように、カトリーナの当座の影響は大統領に対する支持の急落、それにアメリカのイラク駐留に対する支持の急落だった。共和党の覇権が一時的に危うくなっている風向きだ。1992年のロサンゼルス暴動以来初めて、貧困や人種間の不平等、国家の介入といった民主党の古典的なテーマが世上の関心を占めるようになった。ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、エドワード・ケネディ上院議員のような進歩派がニューディール政策の復活(たとえばメキシコ湾岸の洪水管理と海岸線の復旧を行う大規模な連邦機関の創設計画)などという奇策に走る前に、共和党が「知的にも政治的にも攻勢を立て直す」べきだと檄を飛ばしている(13)。

 極めて保守的なヘリテージ財団は、ブッシュをルイジアナの泥沼から引っ張り出そうとして、保守派の論客や共和党の下院議員、それにレーガン時代に司法長官を務めたエドウィン・ミースのような過去の人を集めた勉強会を次々に開催している。

 9月15日、大統領は復興についての演説を行うにあたり、人影のないままライトアップされたニューオーリンズ市内の由緒ある広場、ジャクソンスクエアを舞台とした。上気した面持ちで、200万人のカトリーナ被災者に対し、ホワイトハウスが財政赤字をいとわず2000億ドルにのぼる損害の大部分を負担することを約束した(それでも資産家向けに新たな大規模減税を提案するのを思いとどまりはしなかった)。

 大統領は次いで、その支持基盤の超保守派が前々から熱望していた一連の改革を発表した。教育や住宅のバウチャー(利用券)制度、教会の役割の強化、民間部門に対する大幅な税控除、「湾岸オポチュニティ区域」の創設、石油採掘に関わる環境規制その他の連邦規制の停止などだ。

 ジャクソンスクエアの演説は、ブッシュ語に通じた者にとって、記憶のツボを刺激するような味わい深いものだった。以前にもユーフラテス川のほとりで似たような約束を聞きはしなかったか。ポール・クルーグマンが新聞論説で酷評したように、イラクを「保守派の経済政策の実験場」にするのに失敗したホワイトハウスは、ピロクシー(ミシシッピ州)や第9区(ニューオーリンズ)の傷心の住民をモルモットにしようとしているのだ(14)。ブッシュ大統領の復興計画づくりに力を貸したのは「共和党研究グループ」である。この有力グループの世話役の一人であるペンス下院議員に言わせれば、共和党は被災地の瓦礫のなかから、資本主義の理想郷を出現させるという。「我々は湾岸を自由企業の誘致拠点にする。官が取り仕切るニューオーリンズを復興するなどというのは問題外だ(15)」

 現在ニューオーリンズの工兵隊を指揮しているのが、以前イラクの土木工事を監督していた士官だというのは暗示的だ(16)。低地第9区が水中に消え失せようと知ったことではない。フレンチクォーターのキャバレー店主は今からほくほく顔だ。じきにハリバートン社の労働者、ブラックウォーター社の傭兵、ベクテル社の技師がバーボンストリートに連邦政府のカネをばらまきに来てくれる。「すてきな時間の過ぎゆくままに」。ニューオーリンズのケイジャンたちと同様に、ホワイトハウスでもそう言っているに違いない。

(1) Quirin Schiermeier, << The power of Katrina >>, Nature, no.437, London, 8 September 2005.

(2) ニューディール時代に施行された法律で、公共工事にあたって現地の最低賃金を遵守することを義務づけたもの。同法はかねてから、共和党保守派のターゲットになっている。[フランス語版編集部註]

(3) 2004年の大統領選でルイジアナ州ではブッシュが過半数をとったが(56.7%)、ニューオーリンズは伝統的に民主党の地盤である。

(4) Josephe Suhayda による研究で、以下にその記述がある。 Richard Campanella, Time and Place in New Orleans : Past Geographies in the Present Day, Gretna, Los Angeles, 2002, p.58.

(5) John Travis, << Scientists’ fears come true as hurricane floods New Orleans >>, Science, New York, no.309, 9 September 2005.

(6) Andrew Revkin and Christopher Drew, << Intricate flood protection long a focus of dispute >>, The New York Times, 1 September 2005.

(7) << Katrina’s message on the corps >>, editorial, The New York Times, 13 September 2005.

(8) Ken Silverstein, << Top FEMA jobs : no experience required >>, Los Angeles Times, 9 September 2005.

(9) 第一次世界大戦後にフランスが対独防衛のために築いた要塞線。難攻不落とされていたが、ヒトラーの電撃作戦によって突破される。[訳註]

(10) Tony Reichhardt, Erika Check and Emma Morris, << After the flood >>, Nature, no.437, 8 September 2005.

(11) バトンルージュ選出のリチャード・ベーカー下院議員の発言(Wall Street Journal, New York, 9 September 2005)。

(12) Jackie Calmes, Ann Carrns and Jeff Opdyke, << As gulf prepares to rebuild, tensions mount over control >>, Wall Street Journal, 15 September 2005.

(13) << Hurricane Bush >>, editorial, Wall Street Journal, 15 September 2005.

(14) Paul Krugman, << Not the New Deal >>, The New York Times, 16 September 2005.

(15) John Wilke and Brody Mullins, << After Katrina, republicans back a sea of conservative ideas >>, Wall Street Journal, 15 September 2005.

(16) << Mr. Bush in New Orleans >>, editorial, The New York Times, 16 September 2005.

(2005年10月号)

All rights reserved, 2005, Le Monde diplomatique + Seo June + Saito Kagumi

 石油あふるる世界

石油あふるる世界

And the oil runneth over….

(New Internationalist No.361

October 2003 p22-23)

 

吹き出す石油、それはまるで地球が血を流しているようだ。最近オイルウォッチ[訳注1]が発表した写真は、その様子を物語る。ここにその写真と共に紹介するのは、NIがまとめた各国の現状である(写真はNI本誌p22-23を参照)。


●ナイジェリア

ナイジェリアは、2002年の米国の原油輸入先第5位、そして西ヨーロッパの主要輸入先でもあった。1976年から1996年にかけて、250万バレルの石油がニジェールデルタの土地と運河に流出した。その量は、エクソン・バルディーズ号の惨事で流れ出した量の10倍近くにもなる(1)。その主な原因となっているのが、古くさび付いた石油パイプラインネットワークである。これは再三にわたり爆発・破裂し、周辺住民達の呼吸障害、皮膚や消化器疾患、さらには腫瘍やがんの原因ともなった。石油流出よって、世界第3位の規模を誇るニジェールデルタのマングローブ林は被害を受けた。そして流出が原因となって、地元の人々の生活を支えている漁業や農業からの収穫も激減した。しかも石油採掘の副産物であるガスの75%が燃やされ、放出された二酸化炭素や腐ったような臭いのメタンによって大気は汚染された。また、違法な燃料の汲み上げが行われ、それが原因となった爆発による死者も出ている。1998年10月に起こった爆発では、千人以上の死者を出した(2)。

シェブロン・テキサコ社、エクソンモービル社、トータル・フィン・エルフ社、ENI/Agip社といった石油会社が、この国で操業している。シェル社が運営するこの国最大の共同企業体は、ナイジェリアの原油生産の約半分を担っている。今年3月ナイジェリアの衆議院は、シェルナイジェリア社に対して、15億ドルをバイエルサ県のイジョー族に支払うように命じた。ここでの石油流出は、1956年からコミュニティを苦しめてきた。1993~94年にかけて前例が無いほど繰り返された石油流出事故が原因となって、接触伝染性の病気が広まり、1,400人以上の人々が死んだ。

●エクアドル

この国は、ラテンアメリカの中でも最大の石油輸出国のひとつである。エクアドルの石油埋蔵地は、ほとんどが東アマゾン地方にある。30年に渡る石油の採掘により、2,000平方km以上の原生林が失われた。アマゾンの先住民族のうちTetete族は絶滅し、あと4つの民族(Siona、the Secoya、Cofan、Huaorani)が存亡の危機に立たされている。30年近く破損の続くトランスエクアドルパイプライン(SOTE)からは、1,700万ガロンもの石油がエクアドルのアマゾンに流出した(3)。現在建設中で2番目に主要なパイプライン、OCPパイプラインは、503kmの長さを誇りカナダのエンカナ社率いる企業体(米国のオクシデンタル社、スペインのレプソル-YPF社、イタリアのAGIP社を含む)により建設・運営されている。アマゾンの現在稼動中の鉱区と新しい鉱区からの重質原油を、アンデスを越えて太平洋の港まで運ぶこのパイプラインは、原油生産量と輸送量を現在の2倍にすることを目指したものだ。当初から環境保護活動家は、ニンド・ナンビロ・クラウド森林保護区――450種の鳥類が住み、3,000種の蘭が自生する――を含む11の環境保護区が、この計画により危機にさらされるとしてプロジェクトには反対してきた。2002年9月に世界銀行環境部門の元責任者が作成した報告書には、OCPパイプラインは「世界銀行グループの社会・環境セーフガード政策から相当はずれ……」と記されている(4)。このパイプラインは、今年末までには稼動すると見られている。

詳しくは、Juan Pablo Barragan Amazon oil pipelines – pollution, corruption and poverty (March 2003)というビデオ参照。このビデオは、www.rainforestinfo.org.au/ocp/video.htmから入手可能。

●ロシアーサハリン

今年1月、ロシアはサウジアラビアに代わり石油採掘量世界一の座に就いた。エネルギー資源の乏しい日本の北45kmに位置する、新しい石油開発事業が進むロシアのサハリン島には、北海に匹敵する量の石油とガスが眠っている。この開発事業で採掘される石油の90%はアジアへ輸出される予定で、エクソンモービル社(事業主体企業2社のうちのひとつ)は、日本と中国へ石油を輸送する費用対効果の一番高い手段はパイプラインであると述べている(5)。だがこのパイプラインは、凍結する海を横断するため、その技術が試されることになるだろう。そのリスクを負わされるのは、世界でも有数の多様性を誇り、手付かずの状態が残る生態系である。その中には、ロシアの年間漁獲量の60%を占め、サハリンに住む70万人のうちの5万人が携わる漁業や、世界の中でも特に絶滅の恐れが高い西コククジラとセミクジラの夏の生息域も含まれる。海岸近くの掘削やパイプラインによる環境汚染により、Nirkhi族(3つある先住民族グループのひとつ)の生活に欠かすことの出来ない魚、鳥、動物の個体数の現象がすでに見られる(6)。

●ロシアー中国

今の所、ロシアの主なパイプラインはすべて国が所有しており、トランスネフト社が運営している。そのトランスネフト社の議決権付き株は、ロシア資産省が保有している。45,000kmにおよぶパイプラインの3分の1以上はすでに老朽化している。その結果1998年には、採掘された石油の7%程がパイプライン輸送中に失われている。西シベリアでは、多い時には年間35,000回も石油漏れが起き、300万~1,000万トンもの石油を周辺地域に垂れ流している(7)。このような保守の状況を考えれば、ロシアと中国が発表した2,400kmにおよぶパイプライン建設への不安はつのるばかりだ。このパイプラインは、西シベリアの町アンガリスクから、中国北部にある中国最大の油田である大慶を結ぶものだ。この2005年に完成予定の25億ドルのプロジェクトにより、年間少なくとも2,000万トンの原油が輸送されることになるだろう(8)。計画中のパイプライン建設ルートは、国立公園内を横切ることになっているが、ロシアにおいてこれは違法なはずだ。さらにこのパイプラインは、バイカル湖南端に沿って曲がり、湖に流れ込む59もの川を横切る。南東シベリアにあるバイカル湖は、世界で最も古く深い淡水湖である。この湖は、世界の淡水(凍結していないもの)の20%を擁し、世界遺産にも登録されている。ある影響評価報告書は、パイプライン破断と湖への石油流入の可能性について「相当高い」と認めている。しかし、石油漏れに対する対策は講じられていない(9)。

●スーダン

1999年7月に主要なパイプラインのひとつが完成したことにより、スーダンの原油生産と輸出は過去3年の間に急増した。2001年のクリスチャン・エイド[訳注2]の報告によれば、企業は開発への障害を取り除くために多数の南部住民の殺害や立退きを共謀した。スーダン南部は、最大の反政府勢力であるスーダン人民解放軍が本拠地としている地域である。パイプライン建設中、ナイル川上流域の住民達を脅迫し、逃げ出すように仕向ける程、そのパイプラインは政府にとって非常に重要なものであった(10)。石油の採掘を守るため政府は「焦土」作戦を実行し、住民を追い立て村々を破壊した。農作物は破壊され人道援助物資の配給も許可されず、こうして飢餓が人々をその土地から追い払うことが出来たのだ。

スーダン南部のほとんどの人々や家畜が、ナイル川の水をそのまま利用しているにもかかわらず、政府はパイプラインからの石油流出について調査を行っていない。

 

1 World Watch Magazine, May/June 2003, citing a CIA study; Reuters, 15 August 2001.

2 Energy Information Administration (US), Nigeria Country Analysis Brief, March 2003.

3 Video by Ecuadorian activist filmmaker Juan Pablo Barragan, Amazon oil pipelines – pollution, corruption and poverty, (March 2003).

4 Energy Information Administration (US), Ecuador Country Analysis Brief, January 2003.

5 International Herald Tribune, 14 July 2003.

6 E Rosenthal ‘Conflicts over transnational oil and gas development off Sakhalin Island in the Russian far east: a David and Goliath tale’ in L Zarsky ed, Human rights and the environment: conflicts and norms in a globalizing world, Earthscan, 2002.

7 ‘The Russian Arctic: on the threshold of catastrophe’, Johnson’s Russia List, 4 April 2002.

8 The Moscow Times, 30 April 2003.

9 ‘Green tears over black gold’, The Economist, 17 July 2003.

10 Christian Aid, The scorched earth: oil and war in Sudan, 2001.

11 J Switzer, Oil and violence in Sudan, International Institute for Sustainable Development, April 2002.

[訳注1] Oilwatch(http://www.oilwatch.org.ec/)は、熱帯地域の国で繰り広げられる石油企業の活動に反対するネットワーク団体。

[訳注2] Christian Aid(http://www.christian-aid.org.uk/)は、1945年に英国とアイルランドの教会の支援によって設立された国際協力NGO。New Internationalist Magazineの創刊に関わったNPOのひとつ。

 しいたげられた人々の怒り

しいたげられた人々の怒り

Ring of Fire

(New Internationalist No.374

December 2004 p24-25)

必要なルール変更――国家の主権と民主主義

一般市民の声が国際貿易のルールに反映されることはほとんどなく、国が持つ政治・経済の主権は企業によって侵されている。民主主義を意味あるものにするには、貿易ルールの決定に市民が加わる必要がある。貿易のルールは、人とコミュニティーの社会、文化、経済、環境に関する権利のみならず、市民権と政治的権利をも後押しするものでなければならない。

アンデス山脈沿いの地域で、新しい貿易政策の衝撃に対して公然と非難の声を上げる先住民コミュニティーが続出している。キャスリン・レデブールが、エクアドルとボリビア国内の反対勢力をレポートする。

エクアドルの首都、キトのダウンタウンにある安ホテルの2階の古い会議室。そこは、国内各地から来た先住民グループの代表者で埋め尽くされている。その部屋は、押し殺した話し声によるざわめきと、着古したポンチョに染み付いた木が燃えたような臭いで満たされている。ここにいる人々は、エクアドルの貿易相イボン・バキの登場を待っている。大臣は、新たに提案されたアンデス諸国と米国間の自由貿易協定の利点を説明するためにこの会場に姿を現すことになっている。

エクアドルのヨーロッパ通エリートのひとりであるバキ大臣は、駐米エクアドル大使を何年も勤め、ワシントンとの貿易交渉の強力な支持者である。ゆっくりした足取りでようやく彼女が会場に入ってきた時、そこにいた先住民の代表者たちとの違いは明らかだった。髪を金色に染めたバキ女史は、シルクのブラウスにオーダーメードのドレスパンツという姿。一方、会場のあちこちに見られる小柄な先住民の女性たちは、伝統的な刺しゅうの施された外出着にフェルトの帽子をかぶっている。ミス・ユニバース世界大会を昨年キトで開催したことが最近の業績の1つであるバキ女史は、その熱烈な自由貿易支持により、今ではミスFTA(自由貿易協定)として知られている。

バキ大臣は聴衆に対し、グローバル化は止められないと説明を始めた。「この自由貿易という列車に乗らなければ取り残されてしまいます。」アンデス自由貿易協定は、エクアドルの大企業にとっても小規模農家にとっても利益になり得ると彼女は強調する。しかし、「一番痛手を受けやすいのが地方の人々」である以上、交渉の場に小規模農家が入るべきではないだろうか。

「米国でなければ、一体どの国と貿易をするのですか?」とバキは問いかける。「ブラジル、チリ、それともペルーですか? これらの国々に対して、我が国は貿易赤字を抱えています。この地域では米国が最大の市場です。米国は国民を食べさせていくためにも食料の輸入が必要です。米国と交渉して好条件の協定を手に入れなければなりません。」そして彼女は、そうしなければ他の国がもっと良い条件を提示して割り込んでエクアドルが置いてきぼりにされるとも付け加えた。

バキが演説を終えないうちに、会場から質問が矢継ぎ早に浴びせられる。会場に集った人々はすべてFENOCIN(先住民、アフリカ系住民、小規模農民の連合組織)のメンバーたちである。エクアドルの人口1,300万人のうち、43%は先住民である。

「官僚と企業家で構成された交渉チームが、どうやって小規模農家や地方の人々を代表するのですか?」と疑問をぶつけるのは、アフリカ系住民のリーダーの1人である。

「米国と貿易をするにあたり、地方の人々に対して公平な競争の場を与えるために、政府はどんな技術的あるいは経済的な支援をしてくれるのでしょうか?」と、あるNGOの代表が尋ねる。

そんな中、部屋の隅から、メスティーソ[訳注:先住民とヨーロッパ人の混血]の女性が大きな声で割り込んでくる。「我々は、米国が条件を決めるのをなぜ許しているのですか? 交渉の中で、エクアドル固有の状況はどのように配慮されているのですか?」

FENOCINは2日間にわたる会談を行い、少なくともその時点では、バキ大臣が説明した自由貿易を支持しないことが決まった。そして先住民グループは、「地方の人々が本当に参加できるようになるまで」交渉を停止するように要求した。さらに、自由貿易から最も影響を受ける小規模農家、家内企業、熟練工の各セクターからの代表者を新しい交渉チームに参加させるようを求めた。

*************

エクアドルから1,500キロほど南へ行くと、そこには同じアンデス山脈が連なるボリビアがある。ここでもまた、提案されたFTAに対して先住民が慎重な姿勢を見せている。国内の過半数を占める貧しい人々と共に、先住民たちはボリビアの産業の民営化に抗議するデモを繰り広げ、彼らに影響を与えるこの経済プロセスに対する発言力を得ようと動いている。人口830万人のうち、500万人近くが貧しい生活を強いられているが、そのほとんどが先住民である。この国は、南アメリカで2番目のガス埋蔵量をほこるにもかかわらず、このような現実に直面している。

アルティ・プラノと呼ばれる乾燥した風に吹きさらされた高原は、先住民のリーダーたちの影響下にあり、ボリビアの先住民コミュニティーは何年も自治を要求してきた。ボリビアの主要な小作農民組織のリーダーでアイマラ族出身のフィリペ・キスペは、自治権は「我々が自分たちの法律と領土を持つ唯一の手段だ」と強調する。(1) アイマラ族は、ボリビアの人口の4分の1近くを占めている。

1998年、米国が資金援助したコカ根絶プログラム「尊厳のための行動計画(Plan Dignidad)」の実施と共に、政府の抑圧は激しくなった。この計画によりボリビア軍は、主たる収入源を死守しようとするコカ栽培農家と直接衝突することになった。米国による訓練を受け、武装した兵士たちが、計画に抗議する人々に向けて発砲したことで、人権侵害は緊迫の度を増した。

コカに代わり、パイナップル、パッション・フルーツ、ワカバキャベツヤシ(アサイヤシ)という南国の輸出作物を育てる努力もなされたが、ほとんどが悲惨な結果に終わった。何年も代替作物を育てる努力を重ねるうちに、カンペシーノ[訳注:先住民の農民]は、より疑いの目を向けるようになってきた。チャパレ地方の農民、カルロス・ホアンカはこう話す。「専門家は、アルゼンチンの人たちがプランテーン(料理用バナナ)を好きになってくれればすぐにもうかるようになると言っていた。ところが、2年過ぎても我々は飢えたままだ。自分たちで作物を輸出しようともしたが、今ではコミュニティーが払えきれないほどの借金を抱えることになってしまった。どうやって子どもたちを食べさせていったらいいのかも分からない」

ボリビアの豊富な資源の略奪は、1500年代の半ばにスペイン人たちが先住民を強制的に労働させ、植民都市ポトシの周囲にあるセロ・リコ(富の山)として知られる山から銀を採掘したときから始まった。このパターンは今日でも続き、それに対する抵抗は強まっている。

2000年4月、ボリビア第3の都市コチャバンバの市民は、世界銀行が強く後押しした市の水道公社のベクテル社への売却に抗議するデモを行った。この売却によって、平均的な水道料金は2倍~3倍にもはね上がり、多くの家族が食料雑貨すら買えなくなった。1週間デモが続いた結果、ベクテル社はこの契約から撤退した。4年後、ベクテル社はボリビア政府を相手どり、ボリビアで2,500万ドルの損失を被ったとして法的に訴えを起こした。この件は、世界銀行の非公開の貿易仲裁所で審理が進んでいる。これは、元々の取引に対する世界銀行の熱狂的な推薦が生んだ、明らかな利害の衝突である。

そして2003年10月、ゴンザロ・サンチェス・デ・ロサダ大統領が、ボリビアの天然ガスをチリの港経由でカリフォルニアに輸出することを推し進めた時、ボリビアの抵抗勢力の堪忍袋の緒が切れた。カンペシーノ、貿易の労働組合員、エル・アルトのアルティ・プラノの町のアイマラ族が反乱を起こしたのだ。当初は平和的な抗議活動であったが、サンチェス・デ・ロサダ大統領は軍を動員した。抗議に集まった人々のうち59人(ほとんどが武器を持たない人々)が殺され、何百人もの負傷者が出た。この民衆の怒りの波は、ついに大統領を米国亡命へと追いやった。

後任には、副大統領であったカルロス・メサが就任した。彼が受け継いだのは、物事の決定過程から外されることにうんざりし、一般市民が発言力を持たない資源に依存した経済体制に強く反対する国家であった。そこには、FTAA(米州自由貿易地域)や、アンデス自由貿易協定のような地域協定に反対する既に活発な動きも存在していた。

さらに新大統領は、底をついた財政と圧倒的な米国からの援助(2004年は約1,500万ドル)も引き継ぐことになり、抜け目のない米国の貿易交渉担当者から格好の標的とされた。ボリビア在住の労働・農業・開発問題センターのアナリスト、トム・クルーゼは、自由貿易協定はボリビアやエクアドルが利益を得られるようにと立案されたものではないと主張する。「これが開発のための協定だと考える人々は、全く思い違いをしている。こうした取り決めはすべて、米国企業の欲求を満たすためのものだ」

クルーゼは、アンデス協定は北米自由貿易協定(NAFTA)と同じように、ボリビアの豊かな資源を外国企業が完全に支配できる道を開き、国家の主権を厳しく制限してしまうものだとも指摘している。

こうした見方をするのは、なにもクルーゼだけではない。2002年以降、ボリビアとエクアドル両国の先住民やカンペシーノの同盟は、自分たちの生産物の市場を作り出すためにどのように政府の方針を変えていけばいいのか、ミーティングを開いて話し合っている。ボリビアのヤチャ・カランガス地方の先住民リーダー、グラシエラ・チョッケは次のように説明する。「自由貿易協定を結ぶことになれば、我々はかつての姿に戻ることになるだろう。北米という新たな少数独裁政府のポンゴ(年季奉公人)同然になるのだ。我々が歯が立たないのは分かっている。持っているのは原材料だけで加工する金もない。彼らは既に我々の銀と錫を奪い取ったが、今度はガスを欲しがっている。こんな状況は、地方にとって何のメリットもないことだ。だから我々は自由貿易協定に反対する」

交渉担当者たちは、もしも自由貿易協定に加われば、アンデス農民は米国で大量生産されていない作物を育てることができると提案してきた。しかし、NAFTAがメキシコにもたらした影響を見て、農民も活動家も相当の疑いを抱いている。チョッケは次のように語る。「メキシコ人は、以前から彼ら自身でとうもろこしを栽培していた。ところが今は、米国から言い値でとうもろこしを買わなくてはならない。」つまり心配な点は、食料安全保障[訳注1]がおびやかされるということだ。もしも1つの輸出作物が伝統的な食品作物に取って代わってしまったら、特に毎年種を購入しなければならない遺伝子組み換え作物が導入されてしまったら、ボリビアの食料安全保障はどうなってしまうのだろうか。

ボリビアやエクアドルのような国にとって鍵となる課題は、これらの国々が生き馬の目を抜く世界経済の中で競争していけるのかという点である。批評家たちは、外国資本に門戸を開放するのではなく、まず国の開発政策の強化を最優先すべきだと指摘する。多くのボリビア人やエクアドル人は、自由貿易を望んではおらず、むしろ真の民主的合意から作り出される全く別の方向へ歩もうとしている。

キャスリン・レデブール

ボリビアのコチャバンバにあるアンデス情報ネットワーク(AIN)の理事。エクアドルのサンドラ・エドワーズから調査協力を得た。

(1) ‘Bolivian peasants lynch mayor’, Reed Lindsay, Toronto Star, 26 September 2004.

[訳注1] すべての人々が、十分な量の安全で栄養に富んだ食物を、物理的にかつ経済的にいつでも手に入れ、生き生きと健康的な生活のために必要でかつ好みに合った食事をとれること(国連食糧農業機関)。

 

訳: 松並敦子

 社会運動に対する取り締まり

社会運動に対する取り締まり

Crackdown

New Internationalist No.376

March 2005 p16-17

 

公正な社会を築くための取り組みを弾圧する9.11後の脅威について、アジズ・チョウドリーがリポートする。

反対勢力に対する弾圧がいかにして市場経済資本主義と一致協力しているのか議論することと、郊外にある自分の家に諜報部員が侵入することでそれが現実のものとなることは全く別次元のことである。

それは1996年7月、クライストチャーチで開かれたアジア太平洋地域諸国通商担当大臣会合に反対する、フォーラムと抗議集会の主催者を務めていた時に私の身に実際に起こったことだ。恐らく、ニュージーランド/アオテアロアの歴史上、最もばつが悪く見苦しい「公安調査」活動であったろう。びくついていたNZSIS(地元の州の公安局のチンピラ)は、偶然見つかってぶざまに逃げ出さなければならなかった。その5日後、今度は警察が「爆弾製造器具」を探す名目で再び家宅捜査を行った。何も見つかるはずはない。結局、政府の不正工作の疑惑だけが強く残った。

茶番劇とも言える公的「捜査」の後、私は政府を訴えた。そしてニュージーランドの控訴裁判所は、この件は不法侵入にあたるとの判決を下した。裁判官の1人は、裁判所は「国家安全保障という言葉の持つ圧力にひるむことはない」と語った。1996年に議会を通過した新しい公安調査法により「国家安全保障」の定義はすでに拡大され、それにはニュージーランド経済と世界の安定が含まれ、国家体制の正統性に向けられる批判の監視に無条件のお墨付きを与えていた。その後すぐに、政府はNZSISの調査権限を拡大させるために法を改正した。9.11を契機に、ニュージーランドの治安体制は更に強化されることになった。

「自分が普通だと考えているやつともめると大変なことになるんだ」とブルース・コバーンは歌う。テロとの戦いは、政府の人権政策に対する批判を封じ込めたり、さまざまな反対派の意欲を減退させることによって、政府を守る新しい手段として利用されている。特に「自由貿易主義者」にとって、9.11のテロは絶好のタイミングで起こった。国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関(WTO)といった新自由主義の機関は、破壊的な開発モデルを支持していることや民主的運営が欠落していることに関して、世界中の社会運動から激しい批判の標的にされていた。2001年9月24日、米通商代表部のロバート・ゼーリック代表はスピーチの中で、捜査・摘発の対象を、世界中で活動する公正な社会を目指す活動家にまで拡大するという基本姿勢を示した。「テロリストは、アメリカが世界のために戦ってきたという考え方を嫌っている。国際金融やグローバル化、そして米国を攻撃するために暴力に訴えるようになった者たちと知識的な結び付きがある場合、一般の人々は当然これを不審に思うだろう」


弾圧のする側の論理

何かと言って、警察、公安、諜報機関の権限を拡大するのは常套手段だ。FBIは9.11のかなり前から、FBIの基準に合あわせた電気通信の監視を行うよう各国に対して圧力をかけていた。また、主要な国際サミットの開催前に活動家を国境で食い止めるため、政府間で活動家の機密情報データベースを共有していた。しかし9.11を口実として、ワシントンから南アフリカのプレトリアに至るまで、元来政府が支持を公言してきた民主主義の権利や価値をはなはだしく軽視して、監視、拘留、逮捕の権限拡大が行われた。そこで使用される「テロリスト」の定義の中には範囲が非常に広いものがあり、ストライキから土地の占拠までもが含まれる可能性がある。

2002年、フィリピンのグロリア・マカパガル・アロヨ大統領は「テロとの戦いでは、普通のテロリストと政治的イデオロギーの信奉者を区別しない」と宣言した。彼女は「仕事を与える工場を脅かす存在」という言葉を使い、労働組合を明確に威嚇したのだ。さらに大統領は、フィリピンの革新派の運動を「人権擁護を装うか、一見まともに思えるような政治主張で真の姿を包み隠したテロリストや犯罪者だ」と中傷した。急進派労働団体「5月1日運動」(KMU)の労働組合センター事務局長エルマー・ラボッグはこれに対して「アロヨ大統領は厳戒令の亡霊を蘇らせようとしている」と述べた。

過ぎ去った冷戦時代の共産主義の脅威、無政府主義者、反グローバル主義者、すべてのイスラム教徒は潜在的なテロリストだという発想……、以前とは「敵」は変わっても、やっていることは同じで、その激しさはさらに増すだけだ。異議を唱える人物や「よそ者」と見なされたコミュニティーに対する監視や抑圧は、常に国家主義を補強してきた。時には、国土というシンボルも担ぎ出される。警察や一般大衆の思考様式は、現行の国家体制への挑戦を犯罪行為とみなすのだ。9.11後の世界では、武力を伴った抗議と「殺傷力のより小さい」化学物質やスタンガンなどの武器が取り上げられるようになった。

カルフォルニアのオークランドで行われた非暴力の反戦抗議活動に警察が容赦なく襲いかかった後、州から支援を受けているカルフォルニア反テロリスト情報センター(California Anti-Terrorist Information Center)のマイク・ヴァン・ウィンクルは高らかに次のように述べた。「国際テロリズムに立ち向かう戦争に対して反対するグループがいて……そのような戦争に抗議することは、テロ行為だと言えなくもない」。2003年11月のマイアミのFTAA(米州自由貿易地域)サミット、2004年のジョージア州でのG8サミットの取り締まり強化のために何百万ドルも費やされたが、こうした資金が米国議会のイラク戦争予算(Iraq appropriation bill)から支出されていることは、ここにはっきりと述べておく。

一方チリ政府は、残忍なピノチェト政権時代に作られた1984年の古い反テロリスト法を改正し、マプーチェ民族の活動家の弾圧に利用している。マプーチェ民族は、先祖代々利用してきた土地が林業会社に占領されることに反対し、さらに林業会社が導入を求める松とユーカリの木材輸出のためのプランテーションにも反対している。この「改正」法の下では、誰からでも告発される可能性があり、告発されれば裁判なしで何カ月も拘束されたり、匿名の目撃者や極秘の証拠が裁判で採用される恐れもある。テロ活動に対する刑期は最低で10年である。マプーチェ民族の活動家は、プランテーションの森、木材運搬用トラックや機材に放火した容疑で逮捕され、テロ活動の罪で起訴された。生命や自由、自然に対してではなく、所有物に対する放火がテロ犯罪と定義されるのだ。活動家のなかには、すでに投獄され刑に服している者もいる。最近社会の注目を浴びた事件は退けられたものの、すでに国は上訴した。

弾圧の対象とその現実

ニュージーランド/アオテアロアでは、以前から先住民活動家に対する不法侵入、盗聴、監視を行ってきた。数年前、マオリ族の弁護士で活動家のアネット・サイクスは、自宅の電話が盗聴され、車に位置情報探知機が仕掛けられていることに気付いた。2004年11月には、マオリ族のさまざまな団体や個人をスパイしたNZSISの「オペレーション・リーフ」に関する主張がトップ記事となり、現在調査が進んでいる。

カナダ公安情報局(CSIS)の2003年の報告書には次のように記されている。「カナダは、先住民の権利、白人至上主義者、国家主権、動物の権利、環境、反グローバル化に関する国内テロリズム問題に直面している」。先住民の土地の占領、森林や漁業の権利を巡る争いに対しても、大規模な警察や軍隊の出動が繰り返されている。ガスタフセン湖(Gustafsen Lake)、カネヘサタケ(Kanehsatake)、バーント・チャーチ(Burnt Church)、2002年9月にバンクーバー島で起きた国家安全保障取締統合チーム(INSET:Integrated National Security Enforcement Team)による先住民活動家に対する強制捜査など、挙げれば切りがない。

裁判なしに続く拘束。一斉検挙。行方不明。安全の証明。無知と疑念が基になった不安感のまん延。私たちは、ピノチェト時代のチリやマルコスがいた頃のマニラに逆戻りしようとしているのか? それとも現代のアメリカやカナダへ行こうとしているのか? 移民の拘留、移民に対する制限、強制送還、多数の有色人種コミュニティーに対する小規模な戦い、すべての反イスラム感情。そのどれをとっても、根元はすべて2001年9月11日よりずっと前から存在していた。「市民の自由」が損なわれていくのを防ぐため、効果的にキャンペーン活動を繰り広げるには、多くのコミュニティーにとってさまざまな権利は、弱々しくあいまいなものであること認識しなければならない。ニューヨークに本拠地を置く「家族を自由に」(Families for Freedom)の主催者サバッシュ・カティールはこう指摘する。「現在私たちが目撃していることは、市民を合法な市民と不法な非市民として区別するような移民政策を通じたアパルトヘイトの発展がその根底に流れている。私たちがそれをしっかり理解することが必要だ」

2003年、根拠のないテロ容疑により、パキスタン人学生を中心とした24名がトロントで逮捕、勾留され、強制送還された。はたして彼らは、民主主義や自由という言葉に何を思うだろうか。また、他のイスラム教徒男性と同じように、CSISの主張する極秘の証拠で投獄されたモントリオールのアディル・チャルカオイはどうだろうか。米国に立ち寄った際に拘束され、カナダではなくシリアに強制送還されて1年間投獄され拷問を受けたシリア生まれのカナダ人マハー・アラルはどう感じるだろうか。

公正な世界を目指して北の国で運動をしている人々の多くは、新しい反テロ法と異議を唱えることを犯罪と見なす現状に憤慨している。また、9.11の影響を受けて委縮する世界に懸念を抱いている人もいる。そこには、直接的な行動や「批判しすぎる」ことに対する恐怖がある。しかし、今までほとんど注目されていなかった移民への不公正な対応や、先住民の抵抗を犯罪とすることがようやく今注目され始めた。そして、人種差別に基づく移民政策や公安政策に反対するキャンペーンが、新自由主義と軍国主義に反対する人々と結び付く新しい機会が訪れようとしているのだ。

それがたとえ国から弾圧されやすくとも、正義を求める闘いの最前線で長い間がんばってきたいろいろなコミュニティーと協力関係を築くためにも、私たちは立ち上がらなければならない。

Aziz Choudry

ニュージーランド/アオテアロア出身の活動家でライターでもある。現在はカナダのモントリオールで活動している。

 

訳:松並敦子

 ストリートチルドレン ― その事実(一部翻訳)

ストリートチルドレン ― その事実(一部翻訳)

Street children – THE FACTS

New Internationalist No.377

April 2005 p18-19

ストリートチルドレンとは?

通常私たちが思い浮かべるのは、ストリートに住み働く若いホームレスではないだろうか。しかしストリートチルドレンは、ストリートとの関係性から考えた方がよい。彼らの中には、ストリートで暮らす家族の子どももいれば、家族のいる家があってたまに戻ったり、夜だけ家に戻る子どもたちもいるし、夜だけくシェルターで過ごす子どももいる。さらに、刑務所や施設に収容されていたり、市場で働く子どもたちもいる。ほとんどの子どもは何かしら働いている。

ストリートチルドレンと言っても、彼らはまず1人の人間であり、それぞれ独自の複雑な生活を送っている。


その人数は?

正確な人数は不明。推測では、3千万~1億7千万人と幅広く意見が分かれる。子どもたちは転々と移動している上、ストリートでの生活をやめたり舞い戻ってきたりすることもあり、人数を知ることは困難である。ストリートチルドレンの人数は、国勢調査や人口調査には含まれていない。世界のストリートチルドレンに関する統計は存在せず、各国レベルでも最も頼りになるのは現場で活動している団体の持つ情報である。

戦争、経済状況の悪化、自然災害など、特定の状況によってストリートチルドレンの数は増加することがある。1991年の湾岸戦争前のイラクでは、ストリートチルドレンがいるという報告はなかった。しかし、いまだに衝突が続き、ユニセフはストリートの孤児の増加に危機感を募らせている。(1)

家族との結び付き(4)

■自分の家族との接触を断っている子どもは半数にも満たない。ブラジルでは、約90%のストリートチルドレンが家で生活したり時々家族に会っている。

■貧困や厳しい社会状況が家族への負担となり、子どもはストリートへと追いやられる。ジャマイカのキングストンでは、ストリートチルドレンの90%以上が母子家庭の子どもである。

■子どもたちがストリートへ出て行く原因には、貧困によって加速されることが多い家族崩壊も挙げられる。だが、貧困が主要原因でないのが米国である。全米で75万~100万人と見られているストリートチルドレンの多くは、暴力や性的暴行から逃れるためにストリートへ出て行くのだ。

ジェンダーという要素

■ストリートにいる子どもは圧倒的に男の子が多い。推定では、ストリートチルドレンに占める女の子の割合は3~30%とされているが、この数値では幅が広すぎてほとんど推測値としても意味をなさない。ストリートチルドレンは暴力や性的暴行にさらされているが、女の子はよりその危険度が高い。そして、多くの子どもたちが性産業に引きずり込まれている。

■女の子の性的搾取が最もひどいと言われているのは、インド、米国、タイ、台湾、ブラジル、フィリピンである。旧共産主義圏の東欧諸国においても子どもの性的搾取が起きている。(2)

■ユニセフは、売春や児童ポルノによって200万人以上の子ども(そのほとんどは女の子)が搾取の対象になっていると見ている。毎年120万人の子どもたちが人身売買の被害に遭っており、そのほとんどは性産業へ売られていく。(3)

暴力(4)

■世界の多くの国々で、警察などの取り締まり当局と自警団のような組織が「ストリートの浄化」を進めてストリートチルドレンを抹殺している。ラテンアメリカでは状況が深刻で、その中でも最悪なのはブラジル、コロンビア、グアテマラ、ホンジュラスである。リオデジャネイロでは、1日平均3人のストリートチルドレンが殺されている。カイロでは日常的に取り締まりが行われており、ストリートチルドレンは警察官から暴行を受けている。彼らは頭をそられた後、すし詰め状態の拘置所に収容される。

■麻薬使用率が高く軽犯罪にも手を染めている子どもたちは、同じような違法行為を行っている子どもとよくトラブルを起こす。自分の身を守るためにギャングメンバーに加わることも少なくない。

健康

■リスクの高い性行動や麻薬によって引き起こされる病気になる率がより高い。トロントでは、調査を行ったストリートチルドレンの50%がクラミジアに感染していた。(4) カンボジアでは、HIV感染が新たに発覚した人の40%がストリートで働く子どもたちだった。(6) グアテマラでは、53%が性感染症にかかっている。

■グアテマラの調査では、子どもたちの92%にシラミが見つかり、88%はストリートでの生活によって呼吸器系の感染症にかかっていた。皮膚感染症も一般的に見られた。

■ネパールとグアテマラで行われた調査によれば、都市部のストリートチルドレンは村落部の家で暮らす子どもたちよりも健康状態が良い。しかし、これはストリートでの生活がましであると結論付けているわけではなく、これらの国の村落部の貧しさが際立っていることを示している。(5)

1 ‘UNICEF wary of post-war child trafficking in Iraq’, UNICEF press release, 13 June 2003.

2 ‘UNICEF calls for eradication of commercial sexual exploitation of children’, UNICEF press release, 12 December 2001.

3 ‘All children deserve protection from exploitation and abuse’, UNICEF, 2004.

4 Strategies to combat homelessness, United Nations Centre for Human Settlements, Nairobi, 2000, http://hq.unhabitat.org/en/uploadcontent/publication/hs.599.06.pdf

5 BBC News, ‘Street children surprisingly healthy’, 13 April 2002, http://news.bbc.co.uk/1/hi/health/1920570.stm

6 Sebastian Marot, Director FRIENDS in consultation with Cambodian NGOs, reported by Consortium for Street Children, 2003.

 

訳: 諸 英樹