ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(1)

ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(1)

http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/380.html

投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 11 月 16 日 22:20:26: SO0fHq1bYvRzo

最初にお断りしておきますが、この「ユダヤ・ファシズム」とは私の造語ではなく、シオニズムの創始者チャイム・ワイツマンが、ウラジミール・ジャボチンスキーの「修正シオニズム」運動に対してつけた名称です。

またジャボチンスキー自身もファシズムを称揚し自らをファシストとして誇示していました。彼は1940年にニューヨークで死亡しますが、彼が基礎を置いた「ユダヤ・ファシズム」の流れは、シオニストとイスラエルの中で「極右排外主義武闘派」として強力な勢力へと育ち、血に飢えたテロリスト集団イルグンを経てリクード党に連なります。

そしてイスラエル歴代の首相――イルグンの統帥者でデイル・ヤシン大虐殺の実行犯メナチェム・ベギン;同じくイルグンの中心人物だったイツァーク・シャミール;サブラとシャティラのパレスチナ難民キャンプで大殺戮を繰り広げたアリエル・シャロン;そのシャロンも恐れる凶悪な民族排外主義者ベンジャミン・ネタニヤフ――を輩出することになります。加えて、チャイム・ワイツマンの甥で前イスラエル大統領のエツェル・ワイツマン、現米国大統領ブッシュの「師匠」であるナタン・シャランスキー等々を含む、押しも押されもせぬ血まみれの極悪集団の歴史を作ることとなります。

その間イスラエルは、パレスチナ人に対する大量殺人、拷問、生活破壊はもちろん、国内の人種差別に対する告発を脅迫と暴力で押さえ込み、そして「ホロコースト」を『水戸黄門の御印籠』として全面活用して他国を沈黙させ、その上でIAEAの査察を拒否しつつ400発と言われる核兵器を所有して中東と欧州各国を脅迫し、現在「対テロ戦争」の卑劣な謀略テロを通して中東一帯への支配権拡張に励んでいます。

まさにイスラエルこそ地上最悪の民族排外主義ファシズム国家と言えるでしょう。現在、欧州や米国で繰り広げられている「アンチ・セミティズム」レッテル貼り作戦は、そのイスラエル国家の正体を隠蔽してその野望を達成するために、彼らにとってどうしても必要な「我が闘争」なのです。

何回のシリーズになるのか、はっきりした予定は立ちませんが、私が調べて文章化できた限りのことを次々と発表していきたいと思っています。私自身も「今から勉強する」といったようなテーマですので、毎回あまり統一性は無いかもしれませんが、この系譜は日本ではどうやらあまり知られていないようですので、私が「尖兵」となって突っ込んでいきましょう。どうか私よりももっと才能のある人が、この「イスラエル国家とシオニズムの正体」解明の作業を完成させていっていただきたいと思っています。

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ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで

(1)ユダヤ・ファシスト、ウラジミール・ジャボチンスキー

●私がスペインの現代史を調べていてすっかり当惑してしまったことがある。たまたまだが、次の記事を読んだからである。

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http://www.forward.com/issues/2001/01.11.16/arts2.html

スペイン最初のファシストの生涯を再考する

アカデミーの外ではユダヤ人の恩人としてのハイル・フランコの声が

Jane and Burt Boyar著 『フランコに止められたヒトラー』への書評

ROMAN BRACKMAN

【前略】

すべて公式文書に残されていることだが、これらの事実は同時にユダヤ人の利益に対するフランコの努力を物語っている。恐らく6万人にも上るユダヤ人をナチの収容所から救った努力である。1940年に彼は、スペインで反ユダヤ人法を制定せよとのヒトラーの要求に対し、従うことを拒否した。その代わりにフランコは、フランス占領地とスペインの国境で行われたヒトラーとの会談の数ヶ月後に、マドリッドにヘブライ・セファラディック・近東文化の研究に専念する学究組織であるアリアス・モンタノ協会設立、および世界で最も優れたユダヤ文献である学術雑誌セファラディ(スペインおよびイベリア半島のヘブライ人)発刊の便宜を図った。彼はナチの追及を逃れるユダヤ人に対してスペインの国境を開き、スペイン大使館と領事館に保護とスペインのパスポートを提供するように命令した。

そればかりではない。1945年初頭にフランコは、英国の希望に逆らって、ユダヤ機関が収容所の生存者たちをパレスチナに密かに運び込むのを手伝った。1956年からは、彼はモロッコのユダヤ人たちに、スペイン領サハラを経由して一団となってイスラエルに向かって移動するための道を開いた。彼は1492年のスペイン・ユダヤ人追放令を破棄する公式文書にサインした。アラブ諸国がイスラエルに対して起こしたあらゆる戦争の間、フランコはアラブ諸国政府に対して処刑からユダヤ人を救うように個人的に仲介役を務めたのだ。

【後略。引用、翻訳終り】

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フランシスコ・フランコ(1892-1975)と言えば、ヒトラーやムッソリーニと手を組んでスペインに誕生した人民戦線内閣をクーデターによって倒し、国際旅団に参加した各国市民を含む数十万人を虐殺し、スペインに40年近い残虐な独裁政権をひいた、押しも押されもせぬファシストの代表格である。当然だがユダヤ人たちにとってはヒトラーと並んで蛇蝎のごとく忌み嫌うべき対象である・・・、というのがアカデミックな理解として無難なところだろう。

ところがそのフランコがユダヤ人を救うために多大の努力を払った、というのである。私も最初は目を疑った。しかしこの「フランコはユダヤ人の救い主だった」という話は、意外なことに様々な立場のユダヤ人から多く聞こえるのである。たとえば(引用はしないが)、

http://www.jpi.org/cshlcst1.htm

HOLOCAUST ‘MISCONCEPTIONS’(英語)

http://revista.libertaddigital.com/articulo.php/637

¿Fue Franco un antisemita?(フランコは反ユダヤ主義者だったか?:スペイン語)

http://www.travel-watch.com/Melilla.htm

The Jews of Melilla(英語)

先ほどの書評の著者である作家のRoman Brackmanも名前や経歴や他の著作からしておそらくユダヤ系と思われる。

●確かにフランコには、1492年のユダヤ人追放令の際にキリスト教に改宗して密かにユダヤ教を守り続けた、いわゆるマラノの家系ではないか、という疑いが昔からあるようだ。これについては以下の私の阿修羅投稿を参照していただきたい。

http://www.asyura2.com/0505/cult2/msg/365.html

オプス・デイ創始者はユダヤ系か?(フランコも?カストロも?)

http://www.asyura2.com/0510/war75/msg/662.html

否定論は未だに見つけていませんが、いくつかの興味深い資料をご紹介します。

しかしたとえ彼がユダヤ系のスペイン人であると自覚していたとしても、それだけで「ユダヤ人をヒトラーの手から救い出す」理由になるとは思えない。ユダヤ人といっても決して一枚板ではなく、ユダヤ人同士で凄惨に殺しあった例も多くある。現にフランコはスペイン内乱(1936-39)の最中に国際旅団に参加した大勢のユダヤ人たちを無残に殺害している。

次の資料を見ていただこう。これはセファラディ・ユダヤ人たちによるスペインの語サイト、Desde Sefaradの2005年8月22日の記事である。

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http://desde-sefarad.blogspot.com/2005/08/el-mito-judeo-masnico-los-judos.html

メーソン的ユダヤ人の神話:内戦時期のユダヤ人

【前略】

(ユダヤ人の)圧倒的多数派が共和国支持の立場をとった。しかしながら、英領パレスチナではジャボチンスキーの修正シオニズムがフランコとその反共主義への支持を打ち出しことは銘記されなければならない。(ワイツマンはこの潮流に対して「ユダヤ・ファシズム」と呼んだが、それは、彼の提唱する『大イスラエル構想』によってであるとともに、ムッソリーニ追随者としての媚態によってである。)

共和政府を支持する大勢のユダヤ人たちの熱烈な援助――国際旅団の中に6000人から8000人が志願した――そしてソヴィエトとヨーロッパの共産党指導部の多くがユダヤ人であったことが、ファシストのプロパガンダが共産主義をユダヤ的性格のものであると強調するのに好都合だった。こうして「ユダヤ・メーソン・共産主義」というごちゃ混ぜの神話をひろめるに至ったのである。

【後略。引用、翻訳終り】

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たとえフランコが自らの出自をユダヤ系だと認識していたとしても、要するに、共産主義を支持している(と思われる)者は何人であろうと彼の敵だったのである。しかしここに奇妙な人物の名前が見える。ジャボチンスキー。

このウラジミール・ジャボチンスキーなる人物の唱えた「修正シオニズム」とは一体何か? 『大イスラエル構想』とは? ムッソリーニとフランコの反共主義とファシズムを支持したこの男はそもそも一体誰なのか? そして彼の運動がその後の歴史にどのようにつながっていくのか? またこの「ユダヤ・ファシズム」がイタリア・ファシズムやドイツ・ナチズム、スペイン・フランキズムなどと、どのような関係にあったのだろうか。

彼がイスラエル建国はおろか第2次世界大戦の結果すら知らずに1940年にこの世を去ったために、ジャボチンスキーの名はもちろん彼が種を蒔きそれが成長していった結果の重大さについて、特に日本では、あまりにも認識がなされていないように思える。

その運動の人脈や思想的脈絡、そしてそれ以降の政治的動乱の中に刻まれるこの「ユダヤ・ファシズム」の巨大な爪跡を見るならば、それが単にリクード党の「始祖」となった、というだけでは収まらない、20世紀以降の世界の流れを形作るもっともっと巨大な実体の一部が顔を出したのではないのか、と思われてくる。

しかし相手はあまりにも大きい。一気に結論を出すことはできまい。まずはその人物像から見ていってみよう。

●電網百科事典Wikipedia(英語版)からZe’ev (Vladimir) Jabotinskyの項目を開いてみよう。そして彼の生涯の要点を拾ってみる。なお、Revisionists-Zionistsについては、日本では一般的に「修正シオニスト」と訳されており、ここではそれに従うことにする。

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http://en.wikipedia.org/wiki/Vladimir_Jabotinsky

Ze’ev (Vladimir) Jabotinsky

【翻訳と要約】

ゼエブ(ウラジミール)・ジャボチンスキーは1880年10月18日にウクライナのオデッサで、伝統的なユダヤ人の家庭に生まれた。若くしてジャーナリストを志し、16歳の時にはオデッサで新聞を発行した。後にロシアの新聞の記者としてスイスとイタリアに渡り、ローマ大学で学ぶ。ロシア語、イーディッシュ語、ヘブライ語で記事を書く非常に優秀な記者として有名であった。

しかし1903年のキシネフでのポグロムの後、ジャボチンスキーはシオニスト運動に参加し、すぐにその中で頭角を現す。ポグロムが打ち続く間、彼はロシア中のユダヤ社会の中に自衛団を組織する。そしてテオドル・ヘルツルにとって最後のものとなった第6回シオニスト会議で代表に選出される。

第1次世界大戦中は、当時パレスチナを支配していたオツマン・トルコに対してユダヤ人部隊を組織して英国と共に戦闘に参加する。その後彼はロンドンに渡り、英国軍の一部としてパレスチナで戦うユダヤ人部隊を設立させるために努力するが、英国政府はやっと1917年になってそれを認めた。そして1918年のヨルダンの谷での戦いに参加するが、英国は彼らの参加を歓迎しなかった。

戦後、ジャボチンスキーはパレスチナでの第1回代表者会議に出席し、1921年には世界シオニスト組織の代表委員会委員に選出された。しかし、その議長であるチャイム・ワイツマンと意見が対立してこの組織から離れ、「修正シオニスト同盟(Allinance of Revisionists-Zionists)」、およびその青年組織「ベタル(Betar)」を設立した。その主張は、シオニスト運動は「ヨルダン川の両岸」に沿ったユダヤ人国家(a Jewish state along both banks of the Jordan River)を作る、というものであった。そして彼の目標は大英帝国の援助を受けて近代的なユダヤ人国家を作ることだった。その哲学はシオニスト労働党(Labor Zionists)のものとは対照的であり、それは欧州の中産階級(資本家)ユダヤ人の理想とした経済・社会的政策に焦点を当てていた。彼のユダヤ人国家の理想は英国モデルを基本にした近代的自由民主主義であり、主にポーランドが支持基盤であった。

1929年にジャボチンスキーは第6回シオニスト会議に出席するためにパレスチナを離れたが、英国当局はアラブの圧力を受けて彼の帰還を許可しなかった。彼の作った運動は一枚板ではなく、三つの流れに分かれていた。ジャボチンスキーは英国の協力を望んでいたが、より民族主義的傾向が強いDavid Raziel、Abba AhimeirやUri Zvi Greenbergなどはパレスチナ委任統治領での独立運動に照準を当て、労働党や英国当局、そしてアラブ人と戦った。David Razielはイルグンの指揮官であり、Abba AhimeirとUri Zvi Greenbergは軍事組織レヒを作ろうとしていた。この修正シオニスト党のイルグン派がヘルーッ、そして中間派の汎シオニスト党を吸収してリクードとなる。ジャボチンスキーの愛弟子で最大の者の一人に、イルグンとベタルのリーダーで後にイスラエル首相となるメナチェム・ベギンがいる。

【以上。引用、翻訳と要約、終り】

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不思議なことにこのWikipediaの記事は1930年代のジャボチンスキーの言動や1940年の彼の死に関して一切触れていない。Wikipediaにしては極めて不自然であろう。さらに彼がファシストを名乗りムッソリーニに傾倒しフランコを支持していたことも、その気配すら書かれていないのだ。

つまり、ジャボチンスキーを知るに当たって最も重要な時期のことがスッポリと抜け落ちているのだ。これほど重大な人物に、最も激動の時期であったはずの最後の10年間についてのデータが残っていないはずは無い。よほど「それを書かれると都合が悪い筋」からの圧力があるのだろう。それ以外に考えられない。

●次に再びスペイン語のサイトに進もう。これはエクアドルの反体制系ネット情報誌エクアドル・インディーメディアに載せられた2003年の記事だが、ユダヤ人のジャズ(サキソフォン)演奏家、作家、左翼の思想家として有名な英国在住のジラッド・アツマンが書いた英文記事をスペイン語に翻訳したものである。(英語原文はまだ見つけていない。)

題名は『最も日常的なイスラエル国民の過ち』である。この中から抜粋してみよう。ただしどうやら自動翻訳を使用したとみえて少々分かりにくいスペイン語になっており、ひょっとすると一部の箇所が原文と異なる意味になっている可能性もある。

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http://ecuador.indymedia.org/es/2003/09/3448.shtml

LOS ERRORES MAS HABITUALES DEL PUEBLO ISRAELI

Gilad Atzmon  04.09.2003  Centro de Medios Independientes

最も日常的なイスラエル国民の過ち

ジラッド・アツマン

2003年9月4日  独立メディアセンター

【前略、翻訳開始】

7.彼らは「ユダヤ国家」という概念が正当なものであると吹き込まれている

この過ちは20世紀の文化的な変化の不正確な読み取り方の結果である。シオニズムが誕生したときにそれは一つの正当なイデオロギー的哲学以上のものであった。19世紀の欧州ナショナリズム運動の一部を形作っており、時がたつに連れて他者に対する憎悪が知的な議論の中と欧州の政治の中で激しくなっていった。修正シオニストたちは、ウラジミール・ジャボチンスキーに率いられたのだが、イタリア・ファシズムをおおっぴらに賛美し、ムッソリーニを思想的指導者と見なしていた。それどころか、ジャボチンスキーは、ヒトラーがそれをまだ口に出すことすらしなかった早い時期から、人種的な純粋性の思想を採用したのである。その時期にはシオニズムが人種的純粋性に基盤を置いた民族国家を掲げる唯一の思想というわけではなかった。しかしながら、第2次大戦とナチズムの崩壊の後に事態は変わってしまった。人種的純粋性を基盤にした国家の思想はその正当性を失った。米国型を含めて新たなファシズムは多民族型である。実際のところ、イスラエルが人種的純粋性を基盤にした国家として唯一残っているものなのだ。ユダヤ人国家は正当性の概念を捨ててしまっている。

【引用、翻訳、終り】

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著者のアツマンはイスラエルをナチス・ドイツが消滅した後に残る唯一の「人種的純粋性を基盤にしたファシズム国家」であるから正当性が無い、と語っているようにも見える。これが当を得ているかどうかは別として、ジャボチンスキーがムッソリーニのファシズムを手本にした、「アーリア民族」の優越性を説いたヒトラーをしのぐほどの激しい人種主義者であったことが述べられている。

●これに関連して、もう一つの資料を見てみよう。パレスチナでのシオニストの悪業を告発しているPalestineRemembered.comというサイトに載せられた『ゼエブ・ジャボチンスキーの簡単な紹介と発言』と題された文章からである。(原文は英語)

http://www.palestineremembered.com/Acre/Famous-Zionist-Quotes/Story640.html

Ze’ev Jabotinsky-A Brief Biography & Quotes

ゼエブ・ジャボチンスキーの簡単な紹介と発言

【前略、翻訳開始】

シオニスト指導部の主要な流れとは逆に、ジャボチンスキーはおおっぴらに彼の考えを話した。そして彼もまた、我々の意見では、パレスチナ人に対してシオニスト運動が導く方向に戦略的な影響を与えていた。最初の時点から、彼はシオニストの指導部にいるイデオローグ(たとえばベン・グリオンやモシェ・シャレット)――パレスチナ人を騙してその土地と権利を売るようにさせることができると考えていた者達――を批判した。ジャボチンスキーは、ユダヤ人の権利がパレスチナ人の権利を上回っていると考え、そして、ユダヤ人とパレスチナ人の衝突は不可避であるとシオニズム運動に対して警告した最初の人間だった。そしてこのことは無視されるべきではない。その一方で彼は、この件を解決するためにパレスチナ人たちと交渉するのではなく、避けられない衝突を抑えるために武力を使用することを主張した。この点について彼は1923年に次のように述べた。

『アラブ人たちは自分の国をユダヤ人がそうするのと同様に愛していた。本能的にだが、彼らはシオニストの願望を十分に理解した。そしてそれに抵抗する決定は全く必然的なものだった。・・・・・・ユダヤ人とアラブ人の間には何の誤解も無かった。ただ当然の衝突があっただけだ。・・・・・・パレスチナ・アラブ人とは何の合意も可能ではなかった。彼らは自分が「鉄の壁」に相対していると解った時にのみ、シオニズムを受け入れるだろう。そのときに彼らはユダヤ人国家を受け入れる以外に選択肢の無いことを気付くのだ。』

ジャボチンスキーの「鉄の壁」ドクトリンは、1920年に多くのシオニストが彼に人種主義者の烙印を押すもととなった。ところが、ドイツでナチが権力を握ったとき、ベン・グリオンと他のシオニスト指導者たちはジャボチンスキー・ドクトリンの『重要さ』を悟った。皮肉なことに、イスラエル政治的右派の主張が、1930年代から現在に至るまでパレスチナ人に対するイスラエルの政策を支配してきたのである。

【引用、翻訳、終り】

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なるほど。後のイスラエル労働党となるシオニスト主流派は「パレスチナ人を騙してその土地を取り上げる」で、ジャボチンスキーの武闘派は「パレスチナ人を殺してその土地を取り上げる」ということだったらしい。まあいずれにせよ「目クソ鼻クソ」の類であり、この文章が述べているように労働党もリクード党も本質的には何の変わりも無いのである。また『「鉄の壁」ドクトリン』は現在イスラエルにそびえる「分離壁」を連想させる。この壁を作ったのがジャボチンスキー集団の直系リクード党のアリエル・シャロンであるのもなかなか示唆に富んでいるようだ。

もちろん上記の文章はパレスチナの立場から(ただしこのサイトの本拠地がパレスチナに置かれているとは思えないが)のものなのだが、これを作成するために使った資料は、おそらくレンニ・ブレンナーを代表とする左派系のユダヤ人たちのものと思われる。ジャボチンスキーを「始祖」とする「修正シオニズム」とナチズム、ファシズムの関係についての研究は彼らの労に負うところが大きい。

●今回はここまでとして、次回からはレンニ・ブレンナーの秀逸な研究の紹介、リンドン・ラルーシュとその運動による現代ファシズム・シオニズムへの論考の紹介を中心に、20世紀の隠蔽された歴史を探っていきたいと思っている。

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