夕焼けの滑走路(再会)
アンドラ
戒厳令の夜は更けて(朴大統領時代)
バレイを越えて
老人と女(ボラカイ島の老船乗り)
バリ島
宝石売り


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夕焼けの滑走路(再会)

僕は一度だけ、飛行機の中で待ち合わせをしたことがある。
Y子はバンコックからやってくる。僕は当地のボンベイから乗る。
Y子は母を見送るためにバンコックまで、戻っていったのだ。僕たち二人は出会ってからそう月日は経ってなく、御互い日本の電話番号なども聞き合わせてもいなかった。
否、フルネームすら、知らなかった。
それは、解放感から来るものなのか、外国という意外性から来るものなのか、そんなものにすら縛られたくはなかった。電話番号、名前、生年月日、こんなもののナンセンスは、さすらう僕には、ナンの意味もなかった。
Y子は母にこの僕のステータスの無さを、諭されていたことを僕は知っていた。

ロンドン行きの当日になり、僕はリコンファームの為にタジマハールホテル内にある、エアーインディアのオフイスに出向き、カウンターに座った。年配の上 品そうなオバサンは僕のチケットを眺めるなり「このコンピューターは、ダウンしている」と告げた。代わりに本社オフイスがある海沿いのロケーションを教え てくれる。だが、既に三時を廻っているこの時間ではバスを使う気にもなれず、タクシーを使った。
夜は夜景の名所と言われる一画にあるこのオフイスは、ビルの中に入るとフロアー一面が、カスタマーの為のブッキング用で在る様だった。チケット(整理 券)を持って待っている客達は、静かな紳士淑女の様にポライトに振る舞っていた。僕は反対にこの客数では自分の出番が来ないのかも知れないと思うと、貧乏 揺すりをして苛々していた。
だが、意外と順番は来た。オーこれであの子に合えることになれたとカウンターに座って、「今夜の便でロンドンに行くのですが、再確認よろしく」と手短に 言うと、相手は、何人だと聞く。日本人だと答えると、相手は電話帳よりも分厚い本を持ちだし、何やら調べだした。「アナタはビザが要ります」と言われたと きは椅子から飛び上がるほど、ビックリしてしまった。
「いいえ、日本人は六ヶ月まで、ノービザで行けるはずです」と何回も言ったが、相手は聞き入れず、僕のパスポートとチケットにビザ必要と、大きなハンコ を押されてしまった。泣き出したい気持ちを抑え、冷静に考えた。確か?この隣のビルは日航が入っていた筈と思い出し、隣へと走り込んで行くと、運良く社員 はまだカウンターに残っていた。急ぎ事の次第を言うと、その日本人社員は全く同じ本を取りだし、調べてくれた。
「アナタの言われている通り、日本人は必要ないて、これに書いてあります」と言われたときは、頭に血が上ると同時に、安心感が湧いてきた。時計を見ると 四時五十分、後残すは10分の勝負だ。叉、駆け込んであの忌まわしいカウンター嬢を捜すが、何処にも居ない。仕方無く、空いていた席に半腰になりながら、 今までのことを言うと、「エエ、アナタは必要ありませんよ」と軽く言ってくれるじゃないか。おーおー生きててよかったじゃないが、地獄で仏に会った気分に なる。
パスポートとチケットを出し、叉、同じところに<キャンセル>のハンコをバシバシ捺してもらって、ホテルに帰る。寛いでいる時間はなく、直ぐに バッグを担ぎタクシーを捕まえた。運ちゃんは「国内か国際か」を二度同じことを繰り返した、これが後で分かるのだが、重大な事だったのだ。僕は空港の椅子 でカウンターが開くのを待っていた。
もう直ぐ会えるんだと思うと、熱いものが胸に沸き上がる。何日、会っていなかったのだろう。でも、半時間もせずに会える筈だ。その内にカウンターは開 き、僕は早目にボウディングの為のラウンジでブラブラしていた。その内、アナウンスがあり、リムジンバスに乗って飛行機の脇まで行った。タラップを上がり 機内に入る。スチュワーデスが忙しく働いている。 もう直ぐ、この飛行機の中に乗ってくるはずだ。Y子はこの飛行場の何処かにいる。
指定された飛行機の席に座り、乗ってくるはずのY子をタラップに昇ってくる乗客の一人一人を、目で追っていた。
だが、影も形もなく、そんなY子の姿なぞ何処にも見つけられなかった。
ああ、遂に俺は振られてしまったのか!母の説得に折れ、一緒に日本まで帰ってしまったのか。さも、ありなん。ドロップアウトした俺には、やはり高嶺の花 と言うわけだったのか。一緒に楽しむ筈のヨーロッパは、一人旅になってしまった。早く気持ちを入れ替えないと、余計に詰まんなくなってしまいそうだ。そん な悲観的な感慨になって行きそうな気分の時、最後のリムジンが到着した。一人一人目を皿のようにして扉のところまで行って確認した。最後の一人が飛行機の 中に吸い込まれると、あまりのショックで、頭がクラクラしてしまった。傍のスチュワーデスにY子が来るはずのことを言う。すると彼女は「その人はお前の大 事な人か」と聞いた。思わず「そうだ」とエンジンの音に負けないくらい大きな声で返した。ニタッとした顔をこちらに向け「その子はこちらに向かってやって くる。心配するな」と言い、仕事に没頭していた。
飛行機は飛び立つ前の最終チェックをしている様だった。
その時、確かにY子の事を飛行機のスピーカーを通して、アナウンスされている事に気が付いた。「この子なんだ」と叫ぶと、スチュワーデスはその子はもう直ここに来ると言って、「待って、いなさい」と優しく笑ってくれた。 何度も何度もY子の為のアナウンスが響いた。どうやらY子の為に僕たち乗客は、待たされているようだった。既に飛行機は予定の時間を十五分も過ぎている。
僕はどうしたら良いのか分からず、その時、偶然タラップの下を見下ろすとY子はグランドスタッフと、話しをしている最中だった。キーンと耳をつんざくよ うなジェットエンジンと、熱帯の熱い空気が僕の周りを取り囲み、下品だとも思ったが、大きな声で「そこで何しとるんや。はようコンカ!」と目頭が熱くなる のと同時に、叫んでしまった。上がってきたY子は「えらい事やったんやから」と言い、「この空港は一つのエリアに国内と国際が、離れてあるんや。それを知 らない私は、国内側でずっと待っていたんや。離陸時間の十五分前に違うと分かってからが、大変やった。タクシーに飛び乗り、降りて直ぐ職員に訳を話して、 空港の裏道を走り、リムジンバスが私一人のためにこうして駆けつけて来たンや。もうダメかとも思った」そう言ったY子は「心配したか?」と初めて落ち着い た顔を見せ、二人は顔を見合わせ接吻を交した。その時、先ほどのスチュワーデスが傍を通りがけに「皆が恥ずかしがっているわよ」と言い、それを聞いた客の 一人は僕たちをみて、にっこり微笑んでくれた。

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アンドラ

初めてのイギリスの印象は、入国に関してとっても厳しい国だなーと、感じてしまう。 イミグレオフィサーは僕達のエアーチケットを前にして、入国目的から父や母の職業と、緊急の際の自分の面倒は誰が見るのか等、初めての経験に戸惑い、腹立たしい気もする。
税関で待っていたのは、それ以上のモノだった。一つ一つ全部のものをチェックされ、荷台の上は自分の持ち物で散乱状態だった。彼らは悪いねとか、仕事な のでとかの言葉も言わず、終れば知らん顔して無視状態だった。そうかい!イギリスって国は本当に勝手な国だわい!何を恐れてこんなにまでするんだ!どう せ、自分達の国で就労に就かれて、少しの金でも自国人以外の人に渡さないというエゴの根性じゃないか!何と言う理不尽な事が罷り通っているのだろう。今で も植民地を手放さないし、過去の植民地から、流れてくる人々を必死で水際で、止めようとしている。自分達の歴史のつけを払わないで、行こうとしているこの 国の傲慢さは、「紳士の国」と、言われていることが納得しかねる。
兎に角、バスでロンドン市内に入る頃には、自分の気持ちの中で、嫌なことはこの国にいる内は忘れようと思った。この亊でY子と議論することも避けようと感じた。するならばこの国を出たときにしようと、思った。
手頃なB & B(安宿)を観光案内所で見つけだし、二人はそこのドミトリーに旅装を解いた。熱いインドから一挙に涼しいロンドンに来た所為か、少し暖かめの服など何も なく、薄い生地のモノを何枚も重ね、ヘンテコな恰好の日本人二人が市内観光に出向く。ダウンタウンと思しき所の建物とその雰囲気は、厳かさと気品を兼ね備 えたものだった。しかし、至る所で見られる過去の英雄達の銅像は、歴史を感じる前に、僕はどうも気分が悪くなってしまう。悪い趣味だ、こんなものを平気で あちらこちらにある中で、生活することってどんなモノなんだろうと、他人事でも思ってしまう。
例えば乃木将軍像、織田信長像、徳川家康像、山本五十六像、それに道路もそんな名前が付いていたら、今の若い世代の人は慣れ親しむだろうか。実にクダラ ナイ帝国観念の上で生きている、実はインドに負けないカースト社会のイギリスは、滑稽にも思ってしまった。こんなものは誰もいなければ、小便でも掛けて挙 げたいくらいだと思っている内に、僕は軽い熱が体にある事を知った。罰が当たったのかも知れないなーと、宿の二段ベットに沈んでいたが、ちっとも熱は引こ うとはしない。
一週間を過ぎた辺りで、僕は何だか胸騒ぎを感じ始めた。それはY子のB型肝炎の事だった。彼女はこの一ヶ月前までは、この病気と、闘っていたのだ。そして、僕は看病していた。今になって潜伏していたものが、発病したと分かった。僕はY子にトーマスクックに 行って、もし、B型肝炎ならこの国はどう云う処置をするのか、調べに行って貰った。帰ったY子の報告は、法定伝染病と指定されているので、隔離病棟で約六ヶ月間闘病するとの事、尚、治療費は無料だとの事だった。しかし、僕はY子と離れて六ヶ月間も入院したくはなかった。
結論は簡単に出た。これより物価と気候の温暖さを考え、スペインの地中海沿岸に飛び、其処で、我々が今までの方法で治した遣り方を、そのスペインで治す という事に落ち着いた。Y子に「済まないが、もう一度市内に行って、スペイン、バルセローナ迄の飛行機チケットを買ってきてくれないか」と、頼んだ。彼女 は「わかった、行ってくる」と、一ヶ月前までは寝込んでいた事を忘れるほどの元気さで、飛び出していった。あーあ、今度は俺の番かー、今までどれだけイン ドにいても、大きな病気などはしなかった俺だけど、今回だけは駄目かと、思い出して苦笑してしまった。俺は看病中にもキスをしていたもんなー、まー仕方無 いか、この際ゆっくりノンビリとアジアであった事を、考える良いチャンスにしようと、目を瞑った。早速、明日のフライトで飛び立つことになり、肝炎患者と は言わずに、飛行機はあっという間に着いてしまった。ヨーロッパなんてこじんまりした所だもんなと、思わずにいられない小さな国の集合体だと感じる。この 国の一つ一つが世界に植民地を持ったことが、不思議でならない。
バルセローナから、各駅停車の鉄道に乗り、地図で見かけた小さな田舎で降りることにした。夏になりきれていない地中海には北からの客はいなかった。オフ になった空き家のマンションは、比較的安い値段で借りることが出来た。海が見渡される新築のマンションだった。我々は家具付きの何も要らないマンション で、僕の病気を治すことにした。一ヶ月もすると肝臓の炎症は収まり、黄疸も解消され、便の色も普通に戻った。この頃では、ゲームをしても、熱は出ることも なかった。其れでも、大事を取ってもう少し居る事にする。
或る日の夜、夏の始まりを告げる花火大会があった。音だけが馬鹿でかい花火を見上げ、夏が来たのかと他人事のように感じた。真昼の海岸を陽を浴びて散歩 に出る。太ったオバサンが買い物カゴに沢山の食料を詰め込み、歩いていた。バカンスの騒々しさが嘘のように、静けさが何処までも広がっていた。僕は砂浜で 見つけた小石を、海に向かって投げてみた。「チャプン」懐かしい音がした。小さい頃に聞いた音がした。そろそろ、何処かに移動するかと、体にみなぎる力を 感じた。ウン、これなら動けそうだ。俺はマダマダ、爺さんではないぞ!此処に移住する気は無い、Y子に向かって「そろそろ、神輿を上げようか。どこかに行 こう」Y子は「もう ええんか、それ なら良いけど」「大丈夫、さあ楽しみやなー。地図買いに行こう」地図を買った二人は部屋の中で、此処はどうやと顔を付き合わせて楽しい時間が過ぎて行く。 そして、僕が何気なく見たピレネー山脈の国境付近、そこに小さな国がある事を発見した。
「Y子、こんな所に国があるよ、知っているか」
「知らん」
「行って見ようか。小さな国って何か特徴あるイメージがあるんやけど」
調べてみるとそこは王国らしく免税国とのことで、フランスと、スペインに跨がるピレネー山脈のスペイン側に張り付いた様に、ある。「ふうん、シンガポー ルみたいな国なんやなあ」と、言いながら未だ見ぬ国に二人はこれからの旅の予感を感じ、楽しんでいた。元のバックパッカーの出で立ちで、二人がマンション を後にする時、僕達は素直にうれしかった。バスに乗り7時間くらい経過したかな、段々、山間に分け入りながら上がって行く景色に、これがピレネー山脈か、 きっとバスク地方もこんな感じに違いない等とおもいながら、バスに揺られてようやく着いた。町のまん中を割る様に流れている川、いや 谷だ。ごうごうと岩 を削るくらいの感じで落ちて来る、その両側に張り付く様に立っているビルと住宅、所々に残っている畑、二人はその畑を利用したキャンプ場にテントを張って 過ごす事にしたのだが、これがなんと、もう乞食の家そのもの。Y子のテントであるからそりゃ性能は抜群なんだけど、フライヤーがないのでテントの上にビ ニールを被せたものだから、ちょっと見ても、良く見ても、確実に<乞食の家>になっていて、少し恥ずかしかった。(テントを送ってもらった時、フライヤー を入れ忘れた様だった)最初の日に、昼と夜の寒暖の激しさには驚かされた。昼なんぞは半ズボン一つでちょうど良いのだが、夜が凄い。太陽が山に沈むと同時 に、寒さが凄い勢いで襲って来る。晩飯もそこそこに済ませ、歯を磨き、ある服をありったけ着込み、テントの中に潜り込み、中でストーブを炊くのだが、ス トーブの側は良いのだが後ろ側はもう氷の世界だから寒いの一言。色々と寒さから逃れる方法を試みる、ハードリカーを呑むのも一つの手だった。こうなりゃ早 く寝袋に入った方が勝ちだなんていいながら眠るのだが、僕は必ず夜中に小便をする為に起きるのだ。だが、その時、テントの中は氷がテントの屋根につららと なっているのだから、もう外は押して知るべしだった。小便の湯煙を見ながら、小便が氷る話を聞いた事があって、それは小便が地に着くか否かに氷るらしいと 言う事だった。もしそれが本当なら小便の出る元はどうなるのかと、心配しながら小便をしていた。昼間、町を歩いてみると、ピレネーに跨がっている国 の人達、スペイン、フランスの人が団体バスに乗り込み、何台も列ねてやって来ては、大量の買い物をして帰って行く。間違い無くこの小さな国は免税国とし て、成功しているのかもしれない。叉、ヨーロッパのミニチュア国家にある隠し金庫の為の金融も、発達しているのかも知れなかった。バスからドッと吐き出さ れる人の数、買い物する量を見て此処は凄い物量が動いている事に気がつき、此処の王様は金持ちかも知れないと感じたものだ。町を歩くと東洋人が珍しいの か、皆が見てくれる。通りすがりの人、レストランで食事をしている人、買い物中の人が足を止め手を止め、目を点にした。
何もする事がない日々で、本当に僕は体を回復させた。日中で焼けた体は真っ黒だった。海で焼くより山で焼いたほうが、きめ細かく焼けているのでむらがな く、美しい肌の焼け方だった。それを大発見したと僕は喜び、酒と山羊のチーズ、生ハムを買ってきて、祝杯をあげた。山の頂上を見ると白い雪が帽子に様に、 ちょこんと乗っていた。そして、空は濁りのない空気の元、真っ青であった。
僕達のテント場の周りは、畑が残っていたが、荒れ放題で忘れてしまわれている土地だった。このアンドラ国民は全員、この免税と金融に将来を賭け、第一次 産業には目を呉れていない様だった。アンドラの面積は20キロ四方に過ぎない、土地は厳しい山岳地方で、段々畑に山羊を飼って暮らす生活だったのだろう。 そして、この地が幸いして、スペインに攻め込まれなかったのだろう。だが、今や生活は一変したかの様に、見えた。只、自然だけは昔から変わっていない筈 だった。夏だというのに、夜には雪は麓まで降りて来た。そして、この山脈から流れてくる水の清さと冷たさは、変わってはいない。しかし、アンドラに来る途 中で見かけた石の瓦、石の壁は此処には見 当たらない。新しい家に変わっている。
僕達はこの山国を複雑な気持ちで眺め、この山の向こうにある農業大国フランスに向かうことを、話しあった。そして、出発する日がやってきた。バスに乗り山の頂きを目指しながら昇って行く。
頂上に近づくと濃い霧にすっぽり包まれ、幻想の様な雲の上をバスは走ってる。そこへ突然、裸馬の群れが走っているのが見えた「Y子、見て見て、野生の馬 が走っているよ。Y子、 見た?」等と言いながら窓がラスに顔を引っ付けてみていた。野生馬は現れたかと思うと、何処かに消え、再び霧の中を疾走していく のが、見えた。僕達が居た少し上で、こんな幻想が繰り広げられていたのかと思うと、いつの間にか僕達は手を握りあっていた。
霧は僕達を追い越し、僕達を取り巻いた。木々の梢からは水滴が滴っていた。水々しい草は青々と、時々降る雪の中で健気に茂っていた。 インドの日々から三ヶ月が過ぎようとしている、そんな或る日の様子だった。

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戒厳令の夜は更けて(朴大統領時代)

それまでの、台湾の穏やかな日差しに慣れていた僕には、韓国に着いた途端、震え上がるような寒気に、始まってもいない旅の厳しさを想像してしまった。以 外とすんなり通れたイミグレーションに感謝しつつも、何処か陰鬱な面影を見せる韓国の人々に、この先どうなるのやらと思わずにいられなかった。
一日目の宿は立派なホテルに汚いバックパックを、無造作に皴一つ無いベッドメイキングされたベッドの上に放りだした。真鍮の金具がバスルームの中で眩く 光り、不似合いな自分が此処に紛れ込んでいると鏡をみて、そう思った。夜の食事は当然このホテルの中では、取りたくなかった。近くの繁華街の焼き肉屋で、 他人の食べているものを指さし、壁に書いていあるハングル文字を見ながら食べた。さっぱり読めない、こんなに近い国で、書いてある文字が読めないなんて、 どう云う訳や。店を出ると日本とよく似た酔っ払い達は大きな声を張り上げ、右や左にふらつく足で歩いている。
通の脇にはゲロを吐いて倒れている酔客もいる。昨日までいた台湾ではそう簡単に見なかった光景が、此処には繰り広げられている状況の背景がどうしても、 脳裏に浮かんでしまう。しかし、同じ台湾も反共国家として夜の外出禁止令がある国だったが、特に意識したことは無かった。
翌朝、同じように街にブラリとホテルを出る。このクソ高いホテルに何日も泊まっていられる身分でもない、その為にも他のホテルも調べたかった。真っ赤な 汁が表面に浮かぶ韓国風おかゆを、ふうふう拭き顔を赤らめ胸のボタンを外して食べた。通りに再びでた僕は、隋分と多い革の衣料製品の今で言うブティクを冷 やかして歩いた。何しろ焼き肉の国やもんなー、革は豊富にあるだろうし、韓国は何よりも寒い。
寒いといえば、白菜や大根は美味しい。そして俺にに合うのはマッカリだ。(どぶろく)何処か鄙びた漁村に行って、雪がうっすら被っている漁師の船でも見ながら、しわくちゃ婆あの注いでくれるマッカリで、一杯と行きたいと想像してしまった。

ソウルには昔ながらの寺と門が残っているのが、バスの中からも見えた。高層ビルと広い通りに肩身の狭い思いをして、それらは排気ガスの中で精一杯頑張っ ているように見えた。寺の境内、公園の敷地内では、年配者達は昔ながらの衣装で団欒している。鍔の広いグッと突き出た帽子を被った人達は杖を持っている人 も多かった。彼らは僕を見ると、どう云う態度を取ればいいのか迷っている様でもあった。バスの中では、若い人達は年配者を見ると、自ら席を断って年配者に 譲っている光景に出会った。
これが後何年持つか、複雑な気持ちを感じながらも、日本もこうだったのだろうかと訝しげに思い浮かべた。
歩いてホテルが見えてきた頃、行き成り声を掛けられた。「もしかすると、日本人ですか」思わず立ち止まってしまった僕は、相手の全体を見渡した。「は い、そうですが」「あの、僕はLeeと言います。僕は日本語学校に行っています。時間があれば少し話しして良いですか」「いいですが」彼はよかったと言う 風に喜び「どこかのお店に入りましょう。オカネは心配要りません。私がはらいます」Lee君は店に入って多いに日本語の勉強をしている様だった。「よけれ ば、私の家に来ませんか。そう遠くはありません。バスに乗れば直ぐつきます」これを聞いた僕は渡りに船とばかり「いいですか。そう言われると僕も嬉しい し、こちらの家庭も見れて楽しい」「どうぞどうぞ、おかあさんも喜びます」僕は急いでホテルに戻り、チェックアウトを済まし、バスに乗り込んだ。郊外に差 し掛かると平屋建ての家がビッシリと立ち並んでいる。
各家の煙突からは煙が立ち上がっていた。Lee君の家に入ると御母さんを紹介された。御母さんは何も言わなかったが凛とした気配でニコニコと頭を下げ た。彼の部屋に通されると其処は日本の若者の部屋と変わらなかった。僕はこの機会に、ソウルにある大学を見て回りたかった。日本の大学は荒れに荒れ機動隊 が常駐している異常な学園と、なっていた。そして、南ベトナムに義勇兵を送った韓国の大学を見ておきたかった。 早速翌日にはソウル大と高麗大等案内して もらった。立て看板や、アジ演説など一切無い、気持ちが悪いほどだった。彼は同じ大学の仲間と出会い、学園祭の話で盛り上がっていた。紹介された仲間は普 段と変わらない態度で流暢な英語で自分を紹介した。後でLee君は韓国の大学生の典型だと教えてくれた。「今、韓国の大学生は、英語、の他に二カ国語を勉 強しています。何故なら、彼らは海外に出る可能性のある貿易関係とか、外資系の会社に入りたいからです。僕もそうです。僕は日本に興味があります。何時か 日本に行ける日が来れるよう、頑張っています」と、真剣な顔つきになって言った。
翌日は梨花女子大と師範大学にも行った。お嬢さん大学と言われている梨花女子大は慎み深い気品のある女性がキャンパスを闊歩している。どれもこれも、自 分の国の状況とは違った環境の中である事に疑念が湧かずにはいられなかった。「若い人で反戦とか平和に興味を持っている人はいないのですか」彼はそっと僕 の耳元で「おります、大学にはその組織はないけれど、街の中にある一部のライブハウスにはその雰囲気が一杯です」やっぱりあるかと、嬉しくも思い、「其処 に連れて行って貰いますか」と言えば、「勿論です、でも帰って僕のおかあさんに、言わないで下さい」「御母さん心配するの?」「ええ、それに実は僕の兄さ ん、KCIAで働いているのです。知れれば恐いです」「ほんと?」これで韓国に来た甲斐があったと、思った。帰りには彼が大学の授業を終えてから勉強して いる日本語学校に寄った。色々な職種の人達が勉強をしていた。普通の主婦が「亭主と内緒の話とか、喧嘩をする時の為に習っている」と、聞いたときには、目 から鱗が落ちた様に思った。梨花女子大を出ているハイクラスの主婦は、教養の為だと言っていた。
後は現役大学生達が多く、就職の為に頑張っている。女性の学生がが多い。そのクラスの先生は僕に何かスピーチして下さいと、考えてもいないことを言った 時には、ホンマかよと慌てたが、僕はこの旅で見て感じたことを、喋った。生徒達から質問を受け付けますと先生が言った時もビビッたが、面白いわいと開き 直ってしまった。翌晩に気合いを入れ、アンダーグランド的なライブハウスに一日入門の積もりで、出掛ける。
店内は暗くスピーカーからはガンガンロックのビートでハングル語が飛び出し、若者は吐き出したい鬱積を各自自由に表現している。そんな若い連中の一人は 「アメリカのベトナム戦争に加担した韓国には、国内的には思想の統制が行われている。我々はキャンパスの中で自由にモノが言えない。只、勉強勉強の毎日 だ。そして勉強しても自由に海外にも出れない、世界は今、新たなる価値観が沸き起こっていると言うのに、我々は参加できない」暗い店内でスピーカーの音に 負けない位で喚く彼の声は、声になっていなかった。

数日後、僕はLee君の家を後にして、バスに乗り込み大邸に向かった。一人に戻った僕は再び庶民の中に紛れ込むように、市場を歩き、安い旅館に落ち着い た。その旅館の部屋にも近くの市場の臭いが漏れ込んでくる。唐辛子の臭い、海鮮物の臭い、第一自分の体から染み出す体臭自体が、既に匂っていた。其れにし ても美味しかったなー、あのLee君の御母さんの手料理の美味しいこと、それに凄い数の皿と量には吃驚してしまった。思わず「何時もこれと同じですか、僕 が居る事で特別なんですか」と聞いてしまった自分が恥ずかしかった程だ。そしてあの御兄さんは頑固だったなー、僕が板門店から、北朝鮮を見てみたいと言っ たら、行かないほうが良いと怖い顔して、何度も言ったっけ。
どうしてイケナインダ?私は部外者だし、韓国人なら尚更望郷の念を感じるのではないのかと、思ったっけ。大邸の街は特になにもないが、それだけに普段の 韓国を見れる。だけど、僕は再び戻ることを考え、慶州に向かう。韓国風旅館に宿泊出来たことが嬉しかった。夕方にはオンドルが焚かれ、床の下はホカホカと 柔らかい温もりが堅い床を通して伝わる。パチパチと鳴る火の音と、煙の匂いが部屋にまで伝わり、僕は座布団を抱えて眠ってしまった。明くる日はレンタル自 転車を借り、古墳を見て回ったが、教養が無い為に一向に楽しめない。翌日には有名な御寺をみる為、バスの乗り込み行ってみたが、色がケバケバシイだけで サッパリ分からなかった。やっぱり、俺は土産物のオネーチャンと話し込んでいるほうが、楽しいと思い直し、翌日には店を一軒一軒と冷やかして遊んだ。オ ネーチャン達は「日本の先生達や、医者、公務員達がやってきて、女遊びしていくんだよー」と、非難気に僕の顔見て言ってくるのには、参ってしまった。も う、釜山迄行く気もしなく大邸に戻ろうと思った。あの普通の街に帰って、美味しい焼き肉屋とマッカリが飲めればそれでいいとばかりに、バスに乗り込んだ。 元の旅館に帰るとオジサンが崩れ落ちそうな程頬を緩め、「お前のために良い部屋を割安で泊めよう」等と、言ってくれる。
そして、その夜も何か小便臭い横丁を歩いて、一軒の店に入った。お店と言ったって、ドアが満足に閉まらないような掘っ建て小屋と言ったほうが当たってい る店なのだ。僕が入って行くと、既に何人かの先客が椅子に座っていた。僕は、年の頃は60歳を廻っているだろうと思える婆さんに向かって、「マッカリ」と 言った。婆さんは小さめのヤカンを積み上げてある一つを取りだし、床下にある土に埋めてあった瓶から柄杓でマッカリを酌み、その小さなデコボコヤカンにゴ ボゴボと音を立てて注いだ。黙って僕の目の前にグイ飲みの茶碗とヤカンをドスンと置いた。婆さんは俺の顔をジッと見ていた。僕は肉を焼いてくれと言うと、 婆さんは俯き何やら分からない肉を炭火の上の網に投げ出すように置き、焼き始めると同時に、僕の前に肉の味噌ダレと刻んだニンニクをドサッと、僕が飲み始 めた途端に、行き成り上から置いた。足下は寒さのために冷え冷えとしていた。先客はどうやら僕の正体に気づいたらしく、チラチラと視線を送ってきた。そん な亊に無視を決め込み、マッカリをゴクゴク飲んだ。酸っぱい香りと発酵した何かが舌先で感じた。遅めの酔いがじんわりと効くまでには、ヤカン一杯だけでは 足りない。婆さんに「もう一つ」とヤカンを差し出すと、先程と同じく瓶の蓋を取り、ドボドボ流し込む。焼き肉が出来上がり、味噌ダレに付けて食べるとこれ が美味かった。こんな素朴な味噌ダレに今まで当たったことが無かった。婆さん手作りのこの味噌ダレは、まだ大豆がぶつぶつ残っているだけのシンプルだけ ど、適当に甘さもあり塩味もあり泣きそうなほど、感激した。韓国で良い人とおいしい食べ物に当たったと言うだけで、僕は満足した。食べるほどに飲み、飲む ほどに食べる、これで何回目かと言う程、小便するために表に出て犬のように電柱にぶっ掛けてやった。電柱は小便の湯気がもうもうと立ち上がった。あの寒い 店に居るとは信じられない程、小便は暖かそうだった。
酔いも回った辺りで、身なりが良いスーツ姿の中年が僕の横に座った。彼はマッカリなど飲まずに、ビールを注文して飲みはめる。彼は僕の存在に気が付いた のか、貴方は日本人なのかと英語で聞いてきた。英語で返すのが鬱陶しい程酔っている僕は、一応YESと、答えた。彼は僕をマジマジと眺め、旅行しているの かと尋ねた。そうだ、もうこの街を出れば帰るのだと言うような答えをした。実際そう思っていた。彼は、こんな様な店が日本にもあるのかと聞いてくる。否、 この様な店はもう無くなったと答えると、そうかと言うふうな顔つきで前を向いた。次に彼は、自分はこの町のラジオ局で働いている者だと、名乗った。そし て、私は貴方のように海外に出て旅をした事が無い、貴方を見て羨ましいと素直に言った。彼はビールを飲み干し、もう一本と追加した。何時しか彼は日本語で 話しをする様になっていたが、そんな亊はもうどうでも良かった。彼は酔うほどに本音で言って来た。私たちは貴方の国の為に、どれだけの苦労をしたか分かり ますか、私たちの李王朝はあなた達の軍隊に踏みにじられました、そして国民を重労働に狩り出し、日本語を強要され、街の名も通りの名も日本の名前になりま した。分かりますか?あなたが韓国人なら、その時生きていたらどう思いますか?
こんな遣り取りをしている内に、それまで飲んでいた客達がこの会話に加わり、僕のマッカリの酔いも醒めそうになって来た。僕は酩酊しかけている脳を呼び 覚まそうと、分かりますよ、私がした事でないにせよ、分かります。ソウルの空港に建っている、あの伊藤博文をハルピンで殺した安重根の銅像は、あなた達の 英雄になっています。それだけ恨まれることもしたのでしょう。しかし、日本人もあの時代、黙って北からの脅威、ロシアを見ている訳には行かなかったので しょう。そして、中国の清朝は欧米列強に侵食されていくのを、我が国に見たのでしょう。叉、日本の帝国主義が勢いづいていた頃でもありました。そして、御 互いの意見の相違の背景が噛み合わなかった為に、悲劇が起こりました。でも、僕はここで謝りますと言えば店の中は一瞬シンと静まり返り、その後大きな歓声 と供に夜は更けた。戒厳令の時間が頭を掠め、そろそろ帰らねば兵隊さんに捕まりますのでと言ったが、相手は、あんなもの何にも恐くはない、糞ッたれめ、馬 鹿野郎とエライ剣幕で怒鳴っていた。表には人が通る気配もなく、街はひっそりと息を殺しているかのように、誰もが神経だっている様に感じた。私が送って行 くと言ったラジオ局の人と表に出ると、残っていた客達は皆、見送ってくれた。僕は誰かが貸してくれた自転車の後ろに乗り、酔っぱらったラジオ局の人に掴ま り、彼は全力疾走で限りなく危なく怪しい運転であるが、シッカリ掴まっていなさいと、私に注意を促すと、「それっ日韓友好エキスプレスだぞ」等と大声を挙 げ、兵隊が巡回している間をどうにかこうにか切り抜けた。旅館に帰ればオヤジが、「心配していた」と、ラジオ局の人に言っているようだった。僕は部屋に辿 り着いたと同時に、良い出会いがあったと服を着たまま布団に倒れ込んだ。

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